大井川通信

大井川あたりの事ども

「宗教対話」のテーマを絞る

「大井川ガイドブック」のテーマは、すでに書かれたものを分類することで絞られるから容易だが、「宗教対話」のネタはまだ十分に書き溜めていないので、それができない。だから正面から取り組もうとすると、よくわかっていない内容だけに、格好つけただけものになってしまう。

それで、自分が今の段階で腑に落ちていることはなんなのかを、心(あるいは腹)の奥を探ることで書きだしてみたい。

まず、祈ることが必要か否か。僕は祈りのない家庭で育った。そこから少しづつ「祈り」を取り戻してきた身からすると、祈りは必要である、ということになる。

祈ることの奥には、希みや願いや欲があるだろう。主観的な祈りがそれ以上のものとなるきっかけはなんなのだろうか。一般に「宗教」が疎まれるのは、主観的な祈りの首根っこをつかまえて、それで商売をしようとするからだ。

高級な宗教は、主観的な祈りからてっぺんの上質な部分を切り出して、それを「救済」とか「悟り」とかいう超経験として提示する。この超経験は、たしかに魅力的だ。しかし、そんなものが人に本当に必要なのだろうか。誰もが持つ素朴な「願い」をもっと大事にして深めるような道はないのだろうか。

金光教という民衆宗教が面白いのは、目指すのが「人助け」だということだ。もちろん、キリスト教や仏教も「愛」や「慈悲」を主張するが、橋爪大三郎さんの本によるとそれはあくまで二次的な位置づけだと解説している。第一義にはあくまで、個人が助かることなのだ。一見素朴な「人助け」を第一の原理とする宗教は可能か。

実はすぐれた宗教や思想がいう内容はほとんど同じだ。言葉ではなんとでも言えるということがある。そして宗教の言葉は、究極的には人間に属してはいないという建前になっている。にもかかわらず、人は人をモデルとして宗教を学び、信仰を深めるしかない。生きた人間を手本としないと、言葉にも態度にも魂がこもらない。

例えば、浄土真宗では、阿弥陀仏の象徴でありその人格化だという。南無阿弥陀仏は、この法に帰依し頭を下げることだ。しかし実際の門徒たちは、親鸞を尊敬し、目の前の前知識(先生)に全身で帰依しているように見える。一方、新宗教の中には、いい加減な教祖がいい加減な法(神)を語るまがい物もあとを絶たない。教団、教会、サンガ、グループなどなど、信仰を支える人間関係をどのように考えるか。

法や神は、宇宙や自然にリンクさせることで安定させるとしても、そこへのアクセスを特権的な人間にゆだねる事があらゆる問題のはじまりだった。にもかかわらず、この特権的なアクセスを語らないと宗教にはならない。神(法)へのアクセスをどのように考えるか。教祖(人)をどのような条件のもとに置くべきなのか。建前上は絶対である教祖が暴れ出さないようにするために、どのような仕組みが必要なのか。

現代思想は、人間とその世界の始まりを自然からのズレに置いている。様々な制度も文化も宗教も自我さえも、このズレを埋め合わせるための人工物に過ぎない、ということになる。人間の文明の暴走を押しとどめるためには、その共犯者である既存の宗教や神から目を離し、この自然とのズレ自体に照準する必要がある。

現代思想のこの優れた知恵と共存できる宗教はありうるのか。自然との一体化の夢想を拒否し、自然との亀裂を確かめながら、たえざる自然との調停を目指す宗教は可能か。