大井川通信

大井川あたりの事ども

純粋業界批判(とある塾教師の日常)その1

塾教師の朝は遅い。

表海一浪(おもてうみいちろう)ははれぼったい目をこすると、日差しに輝いた水槽の中の大小の金魚たちに目をやった。出目金たちはとっくに目を覚まして元気に泳ぎ回っている。お腹を空かした金魚たちが食事を催促しているようで気になったのだ。

早くエサをやらないと。布団を払いのけて身体を起そうとした、そのときだった。頭の奥に鈍い痛みが走り、表海は不自然に顔をゆがめた。

「いかん。今のは統合失調症の初期の表情だったな」

大学で心理学を専攻した表海は、二日酔いの頭痛にも、とっさに精神医学的な解釈を加えた自分に満足をした。たしかに昨日はよく飲んだ。行きつけのバー「千手観音」で、ミユキを口説きながら午前4時過ぎまでくだをまいた。ママに起こされたときには、ミユキも帰っていた。

表海が酒量が増えたのは原因がある。勤務先の塾の人事異動が問題なのだ。表海はこの3月からH市郊外の城跡教室の教室長を命じられていた。そこは教室と言っても分校の生徒相手の小規模なものだ。とりあえずそれはいい。ただ、教室の服教室長としてやってくる末期章状(まっきしょうじょう)という男が問題なのだ。

「なんで俺が末期のやつなんかと・・・」

その時、表海のアパートの玄関のブザーが鳴り、かすかに低く読経を唱える声が聞こえてきた。急いでドアを開けると、玄関から3メートルばかり下がって、建物全体を仰ぎ見ている男が、しきりに何かを拝んでいる。

脇にはボロボロになった薄い絵本をはさんでいるが、表紙には「教祖様の一生」というタイトルが見えている。安井松男だ。

「近所迷惑だからやめてくれ。今顔を洗うから車の中で待っててくれよ」

その男はびっくりしたように飛びのき、卑屈な笑いを浮かべながらスルスルと後ずさりしていった。安井は、進学塾義矢留(ギャル)セミナーで後輩にあたる同僚だ。同じK市に住んでいるために、毎日表海のアパートに車で迎えにくるのだ。車を持たない表海も本当はうっとおしくて嫌なのだが、何が目的なのかしつこくやってくる。

車の中では暇さえあれば、さきほどの「教祖様の一生」の絵本をわざとらしく開いているところをみると、やはり勧誘が目当てなのだろう。安井はある宗教団体の青年部の役員をしているのだ。

いつもなら今日のように機嫌のわるい日は追い返してやるのだが、この体調で今から電車とバスで出勤するのはつらい。苦しいときの「神頼み」と安井の車に同乗することにした。