大井川通信

大井川あたりの事ども

千葉県東金市探訪

母は千葉県の東金(とうがね)市で生まれた。小学生の頃までは、夏休みに家族で母の実家に泊まりに行くのが楽しみだった。そこからバスに揺られて九十九里浜の海水浴に行くのも恒例行事だった。

最後に母と二人で訪ねたのが、高校か大学の時で、それ以来40年以上東金には行っていない。母の実家の畳屋を継いでいたのがヤスオおじさんで、子どもの頃に可愛がってもらったが、社会人になってからは一度も会わずじまいだった。おじさんは2013年に亡くなって、その後実家の畳屋の建物も取り壊されて、実家のお墓の整理もしてしまった。

東金のことは気にかかっていて、ヤスオおじさんの存命中に訪ねられなかったのが心残りだった。母が亡くなって丸5年がたった今夏、昔の宿題にようやく手をつけるような気持ちで姉といっしょに東金に向かった。

東金が近づくにつれて、誉田(ホンダ)、土気(トケ)、大網(オオアミ)と記憶の底に沈んでいた駅名がよみがえってくる。ホンダは宇井おじさんの家があって途中で寄ることも多かった。天井の高い居間の前の庭を大きな青大将がはっている光景を憶えている。トケでは、母が若い娘の頃、人に追われて必死で逃げた話を姉から聞いて思い出した。母は小柄だが足が速く、それが幸いしたのだろう。

東金は駅前の様子など、昔のイメージと意外なほど変わらずに、ただ寂れていた。当時父が珍しく入った駅前のパチンコ店も、閉店したまま廃墟のように残っている。駅の反対側には大きなスーパーが作られたりもしているが、そこさえもすでに古びている感じだ。

かつての商店街も今では閑散として、実家の畳屋があったあたりは、幼稚園の敷地の一部になっていた。すぐ裏の道を入ると、八鶴湖(はっかくこ)という大きな池があるのも記憶のとおりだが、周囲を緑で囲まれ、八鶴館という旧老舗旅館の建物と寺院の山門が並んでいる様子は、まるで時間がとまっているかのようだった。

実家の墓のあった最福寺は、記憶よりもずっと大きく立派な構えの寺院だった。駅裏の小山につながる旧墓所まで見当をつけて上ってみた。

母が戦前に通った東金尋常高等小学校はどのあたりにあったのだろうか。市役所脇の整備された公園に戦後の東金小学校跡地の石碑があったのだが、駅舎の待合室に展示された学校の古い写真を見ると、どうもそこではなさそうだ。

戦前の小学校は小規模で移転も多く、今の地元大井でも跡地の資料は乏しい。ただ、その写真は昭和10年の新築時のもので、高台から撮っているので位置関係がよくわかる。昭和4年生まれの母が学んだ校舎で間違いないだろう。

さらには大橋家のトク、キク、マサ、テル、フミ、マサオ、ヤスオの姉妹兄弟たち全員が通った学校なのだろう。ちょうど最福寺の裏山の崖下にあたる場所で、母の実家からも近かったはずだ。

ちなみに東金小学校は、昭和33年に全国的な大ブームとなったフラフープを、健康被害があるという憶測からいち早く禁止にしたことで知られており、それを悔いるためか小学校跡地の石碑の横には、フラフープ・リターンの記念碑が立っている。当時、このニュースを姉を産んだばかりの母もきっと耳にしていたにちがいない。