大井川通信

大井川あたりの事ども

令和最初の日にパンクする

令和初日の夜にスーパーに買い物にでかける。牛乳に卵、パンやお総菜を買って戻る途中、家族にほか弁を買って帰ろうと思いついたのがいけなかった。いや本当にいけなかったのは、たまたま駐車場でこちら向きに停めた車がライトをつけたままのタイミングだったことだ。ライトがまぶしくて、左折で店に入るときの「足元」がよく見えなかったのだ。ドシン。店の前の境界ブロックに斜めに乗り上げてしまう。

ただ車体をこする衝撃はなかったので安心したのもつかの間、ピーという笛のような音が鳴りだす。聞きなれない警告音だと思いつつ、駐車して外に出ると、左前の前輪の一カ所から空気が激しく噴き出している。あわてて家まで戻ったときには、タイヤは完全につぶれていた。

翌朝、JAFに電話すると、ゴールデンウイーク中にも関わらず、一時間半でレッカー車が到着し、最寄りの車用品店さんまで送ってもらう。境界ブロックに直角に乗り上げた場合にはパンクはないが、斜めに乗り上げるとタイヤの側面がつぶれてパンクするケースが多いのだそうだ。境界ブロックが死角に入りやすいとある交差点では、この手のパンクでの出動依頼が絶えずあると教えてくれる。

車用品店では開店一番乗りで、同種類のタイヤへの交換作業を10分で完了する。店員さんも作業員もきびきびとして気持ちのよい対応だった。タイヤの費用はかかったが、思ったよりスムーズに事が運び、2時間遅れで職場に出勤することができた。

アクシデントというものは、不幸にも様々な要因が重なって起きてしまうものだが、それを回復する社会の仕組みの見事な連携には、舌を巻く。様々な悩みや事情を抱えているはずの見ず知らずの人が、こちらの都合に合わせて、笑顔で手を差し伸べてくれるのだ。

 金を払っているから当たり前、仕事だから当たり前、などといってはバチがあたるだろう。こうした社会の連携がうまく機能しない場合もあるし、その連携の外に放置されている人がいるという問題も確かにある。しかしそういう問題の解決へと進むためにも、まずは目の前の「当たり前」に感謝することから始めないといけない。

うろ覚えだが、数十年前に読んだコペル君の物語(今や大ベストセラーだ)にはそんなことが書いてあったように思う。

 

イノシシと野ウサギ

かつては、人間たちのくらしの身近な隣人だった動物たち。都会暮らしとは言わないまでも、ふつうに街で暮らしていると、彼らに出会う機会はまったくなくなっている。昔話や絵本でおなじみの動物でも、実際の姿には驚くことが多い。

たとえばイノシシ。僕は昔、それが野生のブタくらいに思っていた。しかし里山で出くわしたり、草原を走ったりしている姿は、だんじてブタではない。筋骨隆々たるバッファローだ。だから恐ろしい。

田畑で出くわすキジのオスは、田舎の風景から浮き上がってみえるくらい派手な姿だ。道ばたにうずくまる地味なメスも、驚くほどでっぷりとしている。シカはでかい。マムシは太い。イタチはマフラーみたいにヒラヒラ歩いている。

ところで今日、生まれてはじめて野ウサギというものを見た。落ち着いてゆっくり道を横断していく。思ったより大きく、なんだが人間みたいだ。全身茶褐色のピーターラビットという感じ。人間らしく見える理由は、手足がとても長いということもあるだろう。同じ付近で野ウサギを見たという職場の人は、最初はカンガルーかと思ったというが、これはとてもよくわかる。見た人でないとわからないだろうけど。

 

平成最後の「なんもかんもたいへん」を聞く

平成最後の日、東京から来ている姉を門司港に案内する途中で、黄金市場に寄る。昭和の古風な市場を見てもらうためだが、実際は、自分が「なんもかんもたいへん」のおじさんの口上を聞きたかったのだ。

祝日で活気のある市場の狭い路地で、おじさんの言葉が響いている。「いよいよ最後になりました。平成最後のわが社のサービス。天皇陛下は最後のお別れ会。私も五時から行かないといけません」

きゅうりは100円、レンコンは200円、という客との会話の合間に、小気味の良い「でたらめな」口上が続いている。考えてみればザルに値札はついていないから、必ずお客とのやりとりが必要なのだ。

買いものをしている隣のご夫婦に声をかけると、なんと彼らも、平成最後におじさんの口上を聞くために立ち寄ったのだという。だんなさんは、近くの会社に勤めていて、たまたま市場をのぞいたときに、おじさんを知ってファンになったそうだ。

おじさんは足が不自由だから、見かねてお客さんの中で店のお手伝いをしている人がいる、という情報を教えてくれた。僕も、おじさんの家が花屋をしているという情報を伝える。店先で、思わずファンミーティングが成立したのだ。またここでお会いしましょう、といって別れる。

ちなみに黄金市場の案内板を見ると、おじさんが座り込んでザルを並べているあたりには「まつむら花店」という表示がある。市場の人たちはおじさんをまつむらさんと呼んでいて、別の場所でおくさんが花屋をしていると教えてくれた。

天皇陛下がいるのは日本だけです。他はあんまりいません。私は北朝鮮、ノースコリアだけど、あそこには金正日(キム・ジョンウィル)さんしかおりません。あの人が親分」

相変わらず、冗談とも本気ともつかない口上を聞きながら、買い物をする。ときどき声をはって「なんもかんもたいへん」を交えてくれるのは、そのフレーズが好きだといった僕へのサービスみたいだ。

おじさんは前回の醤油のお土産を覚えていて、そら豆をたっぷりサービスしてくれた。喜んで持った帰ったのだが、生まれて初めてそら豆をむくのを手伝うと、大きなさやに豆が一つずつしか入っていない。それでも、ゆでた豆を美味しくいただく。

 

 

昭和最後の日

1989年1月7日。当時、僕は東京八王子で塾講師をしていた。前年から昭和天皇の病状の報道が続いていたが、早朝に「天皇崩御」の報道があった。通勤の道を歩きながら、いつもは目をあわせることもない通行人たちの表情が気になり、その一人一人とほとんど目くばせを交わすような思いだったのを記憶している。そんなことは後にも先にもなかった。

生まれた時から続いており、終戦という日本社会の大変動の前後も貫いていた昭和という元号が終わる。それは政治的立場がどうであれ、やはり自明な世界が「崩壊」するような感覚を与えるものだったと思う。その点で、お祭りムードが先行する今回の改元とはまるで違った。

ちょうどその日に雑誌『文学界』の2月号を手に入れて、電車の中で目当ての柄谷行人浅田彰による「昭和の終焉に」という対談にあわただしく目を通した。改元を念頭においた二人の冷静で、むしろ冷酷な分析に救われた思いがしたためだろうか、はっきりと記憶している。

平成最後の日に、柄谷の対談集に収録されたその対談を30年ぶりに読み直してみた。大まかに言って、論点は二つある。一つは、70年代以降の安定期は、「構造の時代」であり、構造論やシステム論によって理解できてしまう退屈な時代であること。天皇論についても、その起源を問うという発想は、システムとして必要だという結論にしかならない。もう一つは、そういう日本的なシステムに対する同調として、知識人や文学者の仕事が内輪向けのお座敷芸と化していることの批判である。

構造の反復では説明できない歴史がやってくるという認識は、冷戦やバブル崩壊の前夜において、きわめて正確な予告だったと思う。また、知識人が影響力などない前提で原則的で明快な仕事をすべきだという指摘も、今でもいっそう有効なものである気がする。

天皇制は起源の意味を離れて、新しい意味付けを得て存続するという予想は、平成天皇への世間の評価を見ると、正しかったと言わざるをえない。今ではかつてのように天皇の起源論や一木一草に天皇制があるといったような文化論に興味が示されることはなくなった。

柄谷は「前の大戦の記憶がある以上は、まだ40年ぐらいは安定体制を目指そうとうする意識が働くんじゃないか」と語っている。それから30年。大きな破局の記憶は、確実に風化しつつある。

 

 

 

平成天皇の顔

僕の父親は戦中派で、戦争で苦労した人間だから、天皇天皇制と神道とを忌み嫌っていた。天皇がテレビに映るとチャンネルを変えていたし、実家では初詣の習慣すらなかった。僕はそんな空気の中で育ったし、大学に入ってからも、学問の世界や論壇では、まだマルクス主義と左翼の力が強く、天皇制に批判的であるのはむしろ常識といってよかった。

評論を読み始めた頃好きだった菅孝行(1939-)は反天皇制の先鋭な論客だったので、その手の集会にも顔を出した。ただ粉川哲夫(1941-)が、天皇個人を嘲笑することで終わったらそれは体制内部での偽りの批判である、と釘を刺したのは印象に残った。また関広野(1944-)は、天皇制批判はもはや中心的な課題ではない、と公言した。

以上は、80年代前半の風景。冷戦崩壊後の90年代に入ると、人々に感情的な対立を招く不毛な議論よりも考えるべき重要なことは他にある、という大前研一(1943-)のリアリズムが耳に残る。近年は、批判的論客からも天皇制を肯定する議論を聞くようになったが、とくに関心をもつこともなかった。

こんなふうに反感を根にもちつつも、判断を保留し、消極的に現状を受け入れてきた人間にとって、現天皇のたたずまいは、どこか理解しがたいものに思える。しかし最近、新聞で渡辺京二(1930-)の文章を読んで、納得するところがあった。渡辺京二は、天皇制には批判的な論客である。

「私は老境に入ってからの現天皇の顔貌を、尋常ならざるものと感じる。あの柔和、慈悲の相、さらには枯寂(こじゃく)淡々たる口調は、この人の即位以来の修養の賜物であろう」

自らの存在を無にして多数の他者のために祈り続けるという姿勢に徹するときに、あのような表情と立ち居振る舞いが生まれるのだろう。それは、一人の人間のあり方を、法によって選択の余地なく決定したことの結果ではあるが、それを受け入れた人間の覚悟を低く見積もることはできないと思う。

たまたまのことであるが、僕が毎日勤務しているのは、現天皇ゆかりの部屋である。皇太子時代の訪問時に、休憩用の控室として使われた場所らしい。

30年続いた平成も明日で終わる。

 

忌野清志郎の顔

衛星放送を見ていたら、忌野清志郎(1951-2009)の特集をやっていた。93年くらいに制作された番組で、インタビューやライブ映像などを取りまぜている。国立のたまらん坂の上で「多摩蘭坂」を歌い、国立駅北口で「雨上がりの夜空に」を熱唱する。

まだ少しくすんで、湿っぽくて、田舎くさいところの残っている国立の街が映っている。懐かしかった。この15年で国立もすっかり高層マンションときらびやかな商業施設と高額所得者の住宅で埋め尽くされてしまった感がある。

国立の街のはずれには、ハケと呼ばれる国分寺崖線がななめに伸びていて、そこには段差と坂がある。たまらん坂もその一つなのだが、ハケの雑木林が残ったボンコ園という奇妙な名前の小さな公園があって、僕は長い間「ボン公園」だと思っていた。清志郎は、そこのブランコにすわってインタビューを受けている。

あらためて地図をみると、清志郎の通った国分寺二小や三中は、国立駅をはさんで僕の母校の国立三小や一中と同じくらい離れているけれど、みふじ幼稚園は駅のすぐ近くだ。僕も急坂の上のそのあたりでよく遊んでいた。

番組では、歌もよかったけれども、驚いたのは何より清志郎の表情だった。40歳を過ぎた清志郎は、実にいい顔をしている。さっぱりと無垢で、だけど少しおびえたようなか弱さがあって、てらいもかまえもなく世界とむきあっているやさしい顔だった。

清志郎の歌詞にある「多摩蘭坂の途中」、そこには僕の友だちもいたな、と思いだす。

 

ハチの葬式

約束の午後1時に、もち山のクロスミ様の前の道を抜けて、山向こうの葬祭場に家族でむかう。ハチが悪さをしたとき、「もち山にすててイノシシに食べさせちゃうぞ」と妻が叱っていたことを思い出す。

葬祭場は、納骨堂や共同墓地を兼ねているので、休日のためかお参りにきている家族も何組かいる。祭壇のある部屋で、ハチは小さな木棺に入れられて、白い布団にくるまれる。木棺には斎場が用意した花束と、持参したお菓子や食べ物、遊び道具のペットボトルのフタを入れる。お焼香とお別れの時間があって、「また会おうね」「こんど生まれるときは、丈夫な身体で生まれてくるんだよ」と妻が声をかける。

火葬の間は、一時間ばかり家族で控室で待った。骨は小さなハチの身体の形で残っている。とても箸ではさめる大きさではないので、次男と三人で、指先でつまんで骨壺に移した。骨壺は、元気な男の子らしい青いカバーをかけてもらう。いつでも納骨はできるそうだが、家族で相談していたとおり、家で引き取ることにする。

担当の職員さんに聞くと、できて13年の斎場で、その時から勤めているという。以前大井炭鉱についての聞き取りで、山向こうのこの場所にも炭鉱(勝浦炭鉱)があったと聞いていたので尋ねると、やはり山を削った工事の時に石炭の層が掘り出されたそうだ。地元の業者の人も炭鉱の跡地と言っていたそうだが、当時の施設は残っていないという。いつかは訪ねるつもりだったが、ハチがお世話になるとは思わなかった。

昨日はとても寒い日で、ハチは冬の寒い日に我が家に自分で歩いてやってきて、突然また寒い日に去って行ったねと、控室の待ち時間に家族で話していたけれど、外に出ると、今日は日差しが暖かく斎場の周囲の草花も美しい。このまま家に帰りたくないと妻がいうので、ハチを連れてドライブに出かける。

 

ハチのお通夜

昨年のクリスマスの前に、我が家に迷い込んできた子猫のハチが死んだ。てんかんの発作を持っていたけれども、月に一度、何分間かで収まる程度だったので、獣医と相談して、ゆっくり投薬治療をしていけばいいと思っていた。

今回の発作は、一度収まったあとに再度大きな発作が起き、その後も痙攣や震えがおさまらない。目はうつろで、毛を逆立てて、何かに立ち向かうような動作をくりかえす。あわてて獣医にかけこんだが、治療中、心臓と呼吸が止まってしまった。

拾ったときが生後二か月くらいというから、六カ月の命だった。素人目にも相当重いてんかんを患っていたようだから、寿命だったと考えるしかないような気がする。しかしあまりにも突然だった。今朝は元気で、裏口の網戸越しにスズメの声を熱心に聞いていたそうだ。

近くのペット葬祭場で火葬の予約を入れてから、家に帰る。やはり長く一緒の時間をすごしただけに、妻はハチを抱きかかえながら、しきりに話しかけている。「やっとハチのお母さんになれたとおもったのに」「たった四カ月だったけど、この子からたくさんのことを教わった」

僕も動物を飼うのはほとんど初めてだから、あらためて知ることが多かった。顔のつくりや手足の形が、よくよく見たり触ったりすると、人間とはずいぶん違う。言葉も使わないから、思考も感情も行動のルールもおそらくかなりちがう。それでもひとつ屋根の下で、いろいろもめごとをおこしながらも、おたがいに歩み寄って、一緒に暮らすことができる。大切な何かを共有し、お互いをかけがえのないものとすることができる。

ペットなどというから、まるで人間同志の関係が中心で、その関係を身近な動物に投影した疑似的な関係のように錯覚してしまう。むしろ自然をベースにした生き物同士の関係が基本にあって、その上に人間同志の人工的で脆い関係が載せられているのだ。

みじかい時間だったけれども、僕自身の喪失感や悲しみの深さが、ハチとの関係がまぎれもない家族だったことを教えてくれる。ハチが長生きをすれば、夫婦のどちらかは先に死んで、ハチに看取ってもらうことになるかもしれない。そんな冗談をいっていた。せめてもう少し長くいっしょにいたかった。

ハチから学んだことは、もう一つある。二時間近く、苦しみながら、何かに必死に立ち向かうように死んでいった姿だ。僕にはどうすることもできなかったけれども、僕に死の順番が回ってきたときには、ハチのようにひとりで勇敢に試練に向き合おうと思う。

闘いが終わって、すっかりやすらかな表情になったハチは、今階下の妻と次男の寝室のふたりの枕元で眠りについている。これがお通夜なのだと、あらためて気づかされる。

山猫と紳士とどちらが愚かか?

昔、小学校の授業の指導案で、宮沢賢治の童話『注文の多い料理店』を読ませるときに、「山猫と紳士とどちらが愚かか?」という問いをもとに議論させるというものを見て、びっくりしたことがある。山猫にだまされて裸になり食べられそうになる紳士たちは確かに「愚か」なのかもしれないが、そんなレッテルをはったらかえって作品の世界に入りにくくなるだろう。紳士を取り逃がした山猫が「愚か」というのも、無理やりすぎる。

学校の事情に詳しい友人に聞いたら、そんな風に登場人物の間に対抗関係を見出して、子どもたちに議論させるというのが、国語の授業の流行りであるそうだ。なるほど、子どもたちは、どっちがバカかという話題なら、わいわい話し合いやすいかもしれない。しかし、それでは、作品の世界からかぎりなく遠ざかってしまう。

小説は、そこにわかりやすい問いを見出して議論するために書かれているわけではない。とおりのよい解釈を与えるために描かれているわけでもない。

そんなことを思い出したのは、参加している読書会で、井伏鱒二の『山椒魚』を取り上げたときに、話し合いがどうしても、山椒魚と蛙とが、それぞれどんな気持ちを抱いていて、いったいどちらが悲惨なのかみたいな議論になりがちだったからだ。

そういう議論をはじめると、話し合いの形にはなるけれども、言葉が宙を舞って、小説の実際のてざわりからどんどん離れてしまうような感覚を味わった。しかしそのことに文句をいうのは筋違いだろう。

読書会や授業があるから、実際に希少な文学作品を手に取り、それを味わうことができるのだから。読書会や授業の最中の「饒舌」は必ずしも作品の世界を深くとらえることには貢献しないかもしれない。しかし、その「饒舌」の前後には、一人一人が作品と向き合う「沈黙」の時間が存在するのだ。その時間を信頼することが大切なのだろう。

 

テレビ局のプロデューサーの人ですか?

近くの街で仕事で会議に出るので、その前に黄金市場に寄ることを思い立つ。なんもかんもたいへん!のおじさんに会うためだ。JRからモノレールを乗り継いで最寄り駅へ。思ったよりスムーズに市場に着く。

モノレールは、長男が4年間大学への通学で使っていたもの。僕が新入社員としてこの街に赴任したときには、すでに施設は出来上がっていて開業直前だった。長男にこの街の大学への進学をすすめたのは、自分の青春時代へのノスタルジーのためだったのかもしれないと思う。

今日はどんな口上が聞けるのだろうか。期待してのぞくが、市場の路地におじさんの姿はない。足元の野菜の入ったカゴは出しっぱなしだから、食事に出ているかもしれない。周囲もいつもよりシャッターを閉めた店が多く、閑散としている。おじさんの予言通り、コスモスの開店で黄金市場もいよいよあぶないのだろうか。(あとで聞くと、水曜日は中央卸売市場の定休日のため休む店もあるそうだ)

市場のできるだけ古そうな定食屋に入って、ちゃんぽんを食べる。メニューはなぜかほとんどが500円。おじさんのことを聞くと、かなり前から営業していること、おくさんが別の場所で花屋をしていることを教えてくれる。店先での明らかな変則的な営業だから、周囲からは疎まれているかもといらぬ心配をしていたが、そんなことはなさそうで安心する。絵に描いたような昭和の定食屋さんで、開業して60年以上になるそうだ。

「店」の前に戻るが、まだおじさんはいない。路地をはさんだお茶屋のご主人に尋ねると、やはり食事のようだ。テレビ局の人ですか、と尋ねられる。たんなる一ファンですよ、と答えるが、どうやらこのあたりの名物で、地元のマスコミの取材もあったりするようだ。あれだけの口上だから無理もないと思いつつ、ちょっと残念な気持ちもする。

温厚なお茶屋の主人と話しているところへ、大通りから路地に入ってきた人影がある。おじさんだった。少し体を傾けて歩く姿は、さすがに年相応に見える。おじさんが、午後の簡単な「開店」準備をしているところに、おみやげの地元の醤油を手渡す。たまごかけご飯専用の特製醤油だ。意外な声掛けに、おじさんもとまどったようで、お礼を言われたが、ふだんの口上のようななめらかさはない。

客足がないから、口上を聞くこともできない。会議の時間が迫っていたので、路地を後にする。背中で、調子が戻った快活な声を聞きながら。

おじさん「こんなもの持ってきてくれる人はおらんばい!」お茶屋さん「こんなことがあるなら長生きをしないとね」