大井川通信

大井川あたりの事ども

井伏鱒二を読む

読書会の課題図書で、井伏鱒二(1898-1993)の短編を集めた文庫が指定された。初めは、今さら『山椒魚』かと少しがっかりした。今はその不明を恥じるばかりだ。

なにより驚いたのが、漫画家のつげ義春(1937~)との類似性だ。つげが井伏鱒二を好きだとは聞いていた気がするが、実際に読んで、ここまで作品の感触が近いとは思わなかった。『朽助のいる谷間』の孫娘タエトや、『岬の風景』でのまかないの娘さよ子は、初期のつげ作品に描かれる不思議な少女のイメージにとてもよく似ている。さよ子の「何たるくいしんぼうですか!」なんて台詞はたまらない。

また、井伏の作品には、様々な動物たちが登場し、自然の景物も生き生きとして、いわば汎神論的な世界が現出している。これは僕が大井川歩きで近づこうとしている世界と同じなのだ。

有名な『山椒魚』も、サンショウウオやカエルを登場人物として擬人法で書かれているけれども、そこに人間の心理や感情の比喩を読み取っても、それほど面白くはない気がする。川底の異類たちにも生活があり、喜びや絶望や駆け引きや和解や納得がある、ということを遠目で味わうのがいいと思う。

生物の描写も的確で、大胆だ。「彼等(水すまし)は唐突な蛙の出現に驚かされて、直線をでたらめに折りまげた形に逃げまわった」「一年の月日が過ぎた。初夏の水や温度は、岩屋の囚人達をして鉱物から生物に蘇らせた」

最後に小品『屋根の上のサワン』について。この作品は、たぶん小学生の教科書で読んだ。「くったく」というへんてこな言葉に初めて出会って意味を覚えた記憶がある。
主人公は、いきなり「思い屈した心」で登場し、具体的な説明抜きで「ことばにいいあらわせないほどくったくした気持」を抱いている。それが傷ついたガンとのふれあいで慰められる。
梶井基次郎の『檸檬』で、「えたいの知れない不吉な塊」に苦しむ主人公が、一個のレモンの存在に心が満たされるというストーリーと同型だ。『檸檬』が大正13年1924年)で『サワン』が昭和4年(1929年)。ちなみに「ぼんやりした不安」による芥川の自死昭和2年(1927年)。
今の時代は、それなりに豊かな社会の安定と将来への不安とがないまぜとなっていて、状況は当時と似ているのかもしれない。しかし、「くったく」が共通心情とならないのは、社会が様々な消費財や情報で満たされており、人々がくったくしている暇がないからだろう。

 

 

水回りを整える

数年前、風呂場の水道の蛇口の水漏れの修理をした。簡単だった。それで味を占めて、昨年、洗面台の温水と冷水を使い分けられる蛇口の水漏れを直そうとしたが、これは構造が複雑だから、部品を替えるしかないことがわかった。

それでも、とにかく水回りのことは、これだけ不器用で無精な人間なのにもかかわらず、何とかしようと思い、何とかできると思っているところが我ながら不思議だ。

10年ぶりくらいで、二カ所のトイレのウォッシュレットの取り換えをしてやるぞと思い立ち、一階の分はなんとか見様見まねで取り付けられた。しかし二階の分は、そもそも古い器材を取り外すことができない。便器に取りつけるゴムがかたく付着している。ゴムを少しずつねじ切りながら、一週間くらいでようやく分離に成功する。

しかし、こんどは配管の接続がよくわからない。作業解説書が想定している配管と、現物の配管が微妙に違っていて、何をどう取り替えたらいいのか、そのために何が不足して何が必要なのか、作業のプロセスが難しいパズルのようで、頭の中でシュミレーションできない。

にっちもさっちもいかないので、作業書が指示する部品を取り寄せて、現物の組み合わせで、ぶっつけ本番でパズルを解こうとしたら、どうにかなった。

ようは、まるで不器用なのだ。作業というものの才能がまったく欠けているのだ。理屈と現物をつなぎ合わせるセンスが、決定的に不足しているのだ。これは若いころからわかっていて、本を読んだり、あれこれ考えたりしたことが、実生活でまるで応用できないことに気づいていた。だから、その二つを完全に切り離すしかなかった。

これは今でもそうである。でもそれなりに長く生きていて知恵がついたから、大井川歩きと称し、自分が考える舞台を地元の狭い土地に限定することで、思考と実際とのつながりをなんとかつけようとしているわけだ。やれやれ。

そうそう、問題は水回りだった。とにかく元栓を締めて、水の流れを止める。トイレの配管には、手前で水をとめるべく「止水栓」という部品ついている。その先でウォシュレットにも水がいるから「分岐金具」という部品をかませて、水の流れを二つに分けなければいけない。接続部分には必ず、ゴム製のパッキンを入れて、ボルトをきつく締め付けること。水漏れ防止は、この武骨な無理やりの力技に頼るしかないのだ。

などと、とりあえずスラスラ理屈をまとめておくことにしよう。実地ではまるで力不足だったのだが。やれやれ。

 

 

ヤマシタキヨシさんの家

ヤマシタキヨシといえば、あの「裸の大将」だ、放浪の貼り絵画家だ、というのは、今の若い人たちにも通じるのだろうか。通じはしまい。人気テレビシリーズが終了したのは、20年前。その特別編として数作が放送されてからも、10年が経つ。せいぜいドラッグストアのマツモトキヨシと勘違いされるのがおちだ。

しかし、僕がヤマシタさんの印象が強いのは、やはりヤマシタキヨシという名前のインパクトからだった。大井の古民家カフェで出会って、話をしたのは一度切りだったと思う。60代後半。色が黒く、小柄で猫背気味だった。設計関係の仕事を引退して、地元に家族を残し、大井の一軒家で悠々自適で暮らしているという。学生の頃から登山をしており、海外の山にも遠征する登山家だった。自宅の室内には、岩登りの練習用の壁面をもっているとのことだった。

その後、体力維持のためだろうか、大井ダムの脇を足早に歩くヤマシタさんと何度かすれ違ったことがある。そういえば、近所のスーパーで見かけたこともあった。僕との関係はそれくらいだが、妻は古民家でのストレッチ教室で、一年ほど毎週顔をあわせていたはずだ。

そんなヤマシタさんの訃報を聞いたのは、もう3年ばかり前のことだ。冬の阿蘇山の斜面で100メートルを滑落し、命を落としたのだ。人づてに聞くと、アフリカに長期滞在する予定もあったのだという。ヤマシタさんの事故は、新聞でも小さな記事になっていた。

ヤマシタさんの家は、僕の家から歩いて数分のところにあってしばらく空き家になっていたが、今は全く違う苗字の表札がかかっている。高台の日当たりのいいまだ新しい家だから、買い手が見つかったのだろう。

この土地は、ヤマシタさんのお父さんが買い求め、結核の治療のために住み始めたのだと後から聞いた。なるほど、隣接している総合病院は、かつて結核の専門病院だったと聞いたことがある。

今朝は、久しぶりに大井の旧里山の住宅街に沿ってぐるりと歩いた。桜は散ってしまったけれども、八重桜だけは重量感のある花弁をぎっしり並べている。ヤマシタさんの家の前にたっても、彼の記憶も人生もすっかり拭い去られているかのようだ。もともと住宅街とはそういう場所なのだろう。人と土地とのクールな関係を了解し、むしろそれを望んで人が移り住むところなのだ。

 

町家というもの

港町津屋崎の中心に構える豊村酒造の建物について、文化財修復の専門家の話を聞く。酒造全体では、明治から大正にかけて蔵などの諸施設が建設され、建坪千坪に及ぶ建物群を形成しており、歴史的な価値をもっているそうだ。しかし、やはり目を引くのは、店舗棟と呼ばれる町家形式の建物である。専門家によると、源流は京都の町家で、博多の町家の形式も踏襲されているらしい。

僕は、詳しいことはわからないながら、この町家というものが以前から気になっていた。寺院建築のように正面切って好きだと言ってきたわけでも、専門書を買い込んだりしたわけでもない。ただ、観光地で古い町並みを歩くと、町家を見学する機会が多くあって、見るたびに好ましく思えてきた。

まず正面道路から土間に足を踏み入れると、薄暗いトンネルのような土間は想像以上に奥まで続いていて、その先には中庭が明るく見える。見上げると、屋根の裏の小屋組みも闇に沈んでいて、思いがけない武骨な梁(横材)が何本も通されている。豊村酒造では、そこには塩に浸けて持ちをよくした黒光りする太い曲松が縦横に組み合わされていて壮観だ。

土間の脇には、帳場や座敷など三室が並んでいる。豊村の場合、三室が二列に並んでいて、この二列三室型というのも町家の基本形だそうだ。座敷を見上げると、二階が吹き抜けになっていて、ぐるりと高欄(手すり)がめぐっている。よく見ると、高欄は持送りという部材によって支えられ、そこには彫刻がほどこされて漆が塗られている。いかにも豪華な仕様だが、博多の町家に類似例があるそうだ。

下から見上げる二階はいかにも天井が低いが、これは厨子二階(つしにかい、中二階)と呼ばれる江戸時代以来の京都町家の伝統だという。天井には一カ所、吹き抜けで屋根を突き抜けた明り取りの窓が見える。高欄の下には、山崎朝雲作という見事な社のような神棚がしつらえてある。

町家の魅力とはなんだろう。やはり、そこに様々な中間(境界)領域が折り重なるように存在しているということだろう。ウナギの寝床のような建物を貫く土間は、外と内、光と闇とを媒介している。道路は土間へとつながり、土間は室内へとつながり、室内の空間は階上へ、さらに吹き抜けを通じて天へと続いている。

人間の暮らしの動線に従って、前後、左右、そして上下へと変化に富んで連なる空間は光と闇にたっぷりと浸されて、実に魅力的だ。あらためてそう思う。

 

『科学の学校』 岩波書店編集部 1955

五巻セットの本が届く。箱はだいぶ古びているが、中身はきれいで思ったより状態がいい。長年心の片隅にひっかかっていた本を手にして、感無量だ。

敗戦後まだ10年の年に出版された子どもむけの科学の本。各巻は「宇宙と地球」「生物と人間」「物質・熱・光」「電気と原子」「機械と産業」のテーマに分かれていて、多くのモノクロの写真や図版を使いながら科学・技術全般に渡る詳細な見取り図を描いている。この後の時代の小学館の図鑑シリーズよりも、内容ははるかに本格的で、活字も小さく、まるで大学受験の参考書のようだ。

本の作りも重厚(同じ大きさの小学館の図鑑より実際にかなり重い)で、本体には「KAGAKU  no  GAKKÔ」とローマ字表記されているのが、子どもの僕には、大人の専門書のように感じられた。戦後社会の復興と発展のために、子どもの科学教育が何より大切で必要だという思いに支えられた出版という気がする。

僕の実家の隣には叔父夫婦の家があって、両親とも教員だったから、実家より経済的にはかなり恵まれていた。「少年少女文学全集」とか、子ども向けの百科事典がそろっていたから、従弟の家に上がり込んで、ずいぶん読ませてもらった記憶がある。この五巻本も、年長の従弟の教育のために叔父たちが購入したものだったのだろう。星や宇宙に興味があった僕は、特に第一巻を熱心に読んだものだった。

もはや最新ではなくなった解説書だが、高度成長前夜の雰囲気をたたえていて、どこか懐かしく、歴史的資料としてひもとくこともできるだろう。編集者たちが期待する読者ではなくなった僕だが、一ページ一ページをていねいにめくって、読み通してみたい気持ちにかられる。

 

鳥にも年齢がある

子どもの頃持っていた理科学習漫画『鳥の博物館』を古書で手に入れて、パラパラとめくっている時、「ながいきくらべ」というページがあった。トビが120年生きるなんてことが真顔で書かれていてびっくりしたが、さすがにそんなことはない。それでも、実際には20年から30年くらいは生きる個体がいることを知った。

鳥好きでも、鳥の年齢を意識することはなかった。まずは種類。オスとメスに目立った違いがある種類では性別。図鑑などでは若鳥の特徴を示している種類もあるが、なかなかそこまでの区別はできない。

鳥に年齢があるということは、一羽一羽に生きてきた年月と、経験と暮らしの歴史があるということだ。種類の奥にある個体を、そんなふうにつかまえて思いやったことはなかった。そういう見方をすると、毎日のように出会うトビにしても、まったく違った存在に見えてくる。

僕が今の家に越してきたのは、22年前のことだ。里山の開発途上で周囲には空き地も多く、トビが家の近くまで飛んできて、笛のような鳴き声を響かせていた。長男が二歳。次男はまだ生まれていなかった。あれから本当にいろいろのことがあって、子どもたちは社会人となり、長男は家を出て行った。僕も妻も両親を見送った。

あの時、上空を舞って家を見下ろしていたトビが、この同じ土地で毎日を暮らしながら、まだ生きているということだ。通勤途中で今朝見かけたトビが、あのときのトビなのかもしれない。人間とは比べものにならない優れた視力で、僕たちの暮らしや地域の変化を見続けていることだろう。

この20年でもずいぶん開発が進み、トビも暮らしづらくなっているはずだ。教育の真の目的は、人間同志の自由の相互承認だと言い切る教育学者がいるが、それはずいぶんと狭い了見だと思う。トビには、人間的な意味での欲望や自由はない。しかし彼らを隣人として認め、彼らとともに暮らす流儀は、かつても今も、そして未来も変わらずに大切なものであるにちがいない。

 

 

『いつもそばには本があった。』 國分功一郎・互盛央 2019

僕より一回り若い論者による、本や研究をめぐる往復書簡。「一回り」とは古い言い方だが、なるほど世界が更新されるのに十分な期間なのかとあらためて思った。「十年一昔」という言葉もあったっけ。

いわゆる哲学・現代思想といわれる分野の専門家たちだから、懐かしい名前や本も話題になって、啓発されるところが多かった。僕自身はこの分野を遠巻きにながめながら暮らしてきたにすぎないが、國分は「一般読者」に届く作品を書くことを大切にしているという。だとしたら、彼ら専門家の繊細な議論へのおおざっぱな、しかし強い違和感をメモしておくのも意味があるかもしれない。

10年ズレている。それが端的な感想だ。体験のズレは仕方ないけれども、どうやらそれは時代認識のズレのようなのだ。

90年代半ばに思想書を読み始めた國分(この本では彼が議論をリードしている)は、周囲が「そんなものは幻想にすぎない」という議論に満足しているのを感じ、それが思想・哲学が大きな課題に直面しておらず、やることがなかったからだと考える。そして、こうした雰囲気を打ち破ったのは雑誌『現代思想』2002年の「税の思想」という特集号で、この特集がいかに驚きをもって迎えられたのかを記録するのが、この本の目的の一つだとまで言い切るのだ。思想が国家の政策を論じることの必要性や、「差異と交換だけで資本主義を論じる」ことの問題点が、この特集で明らかになったのだと。

正直、キツネにつままれたような気分になった。「そんなものは幻想にすぎない」という議論が本当に跋扈したのは、マルクス主義の退潮を受けての80年代の思想界だ。ポストモダンの思潮がながれこみ、消費に浮かれる80年代には、確かに哲学・思想にはまともな課題に直面していなかったかもしれない。

90年前後に、冷戦の崩壊とバブルの崩壊という、間延びした社会に衝撃を与える事態が発生する。この事態を前に説明も対応もできないことが明らかになり、「現代思想」は輝きを失っていく。その頃、社会学者の橋爪大三郎が『現代思想はいま何を考えればよいのか』という本を書いて、国家や具体的な政策を論ずることがなく、差異と交換の話ばかりしている現代思想の在り方を批判したのには、文字通り目からうろこが落ちる思いがした。

90年代には、それまでの戦後社会の安定や常識を覆すような出来事が頻発した。大企業の倒産や政権の交代もそうだし、95年にはオウム事件もあった。考えることの課題は山積していたのだ。ただそれを担ったのが、経済学であったり、社会学であったり、在野の思想家たち(僕に近いところでは竹田青嗣加藤典洋らが元気だった)であって、現代思想ではなかったということにすぎない。たしかに、ある現代思想論者が、自著の後書きで、90年代に入って現代思想がつまらなくなったと嘆いているのを読んだ記憶がある。

國分功一郎は、誠実でまじめな思索者であることはわかるが、その著作からは違和感がぬぐえなかった。今回の本で、その理由が少しわかった気がする。広い視野で発言や活動をしているかに見えて、その足場はかなり狭く、バランスを欠いているように思えるのだ。

 

『世界の戦闘機』 秋本実 1969

勉強会仲間の吉田さんに、近頃子どもの時の本を集めているという話をしようと思って、たまたま届いたばかりのこの本を持参した。すると彼の目の色が変わる。吉田さんもかつて飛行機好きの子どもだったのだ。それでしばらく、スカイホークやらイントルーダーやら、ジェット戦闘機の話題で盛り上がった。

吉田さんの目の色が変わったのには二つ理由がある。一つは、本は捨てない主義の吉田さんも、この本は兄弟げんかで破られて失くしていたのだ。そしてもう一つは、この本が新品同様に異様に新しい状態のためだろう。

子どもの愛読した本は、ボロボロになる。だからそういう状態になった姿で記憶に残っている。それが箱につぶれもない、まったく新しい状態で目の前に現れると、よく知る友人がクローン技術で若い姿に再生されたみたいな驚きを感じるのだ。

「写真でみる世界シリーズ」のこの本は、当時の子どもたちに広く読まれたと思うが、子ども向けの評論といった感じの『航空の驚異』も吉田さんの蔵書にはあるという。飛行機の名前を憶えて知識を蓄えれば、パイロットになれると思い込んでいたそうだ。

70年代は、動画もテレビゲームもなく、手に入る画像も情報も乏しかった。わずかの情報や写真を介して窺われるモノの世界への渇望はとても強かったと思う。それは飛行機だったり、自動車だったり、天体望遠鏡だったり、古銭や切手や昆虫だったりする。

何年か前、職場の若いイギリス人と話していたとき、たまたま戦闘機の話をしたら、よく知っているのに驚いたことがあった。え、ロシアのスホーイ(ミグとならぶ戦闘機メーカー)を知っているんだ。下手くそな英会話で聞きだすと、テレビゲームで覚えたとのこと。時代は変わった。

 

『日本のパワーエリート』 田原総一郎 1980

1980年は、僕が高校を卒業し大学に進学した年だ。時代の大きな変化は、その少し前から始まっていたが、巨視的にみれば、消費社会が成立し、ポストモダンといわれる時代が始まるメルクマールとなる年に区切りよく環境が変わったのは、振り返りには便利である。

入学後すぐに、新入生歓迎か何かの講演会で、評論家の田原総一郎(1934-)の話を聞いた。遅咲きで苦労人の田原は当時すでに40代半ばだったが世間的にはまだ無名で、さほど広くはない教室でも聴衆はまばらだったと思う。講師の登場前に、主催者の学生が事前にインタビューしたときの音声が流れていた。

大学の講義が面白くないという話題で、たぶん田原が学生の人気を反映する仕組みが必要だといったのだろう、訳知りの学生が「キルケゴールの講義は学生がほとんどいなかったそうですよ」と反論する。「キルケゴールの講義が実際に面白かったか、あなた知っているの」と田原が突っ込んでいた場面が妙に印象に残っている。

実際に大学の講義の多くは、あぜんとする程つまらなく、スタッフも環境も貧弱なものだった。「学生一流、校舎二流、教授三流」という言葉を、教授自身が自虐で教えてくれる始末だった。

田原の講演の様子はあまり覚えていない。すぐに購入したカッパブックスの新著がこの本で、子どもの時のものとはいえないが、大学入学当時の記憶と結びついて懐かしいので、古書で手に入れる。

1972年を境に日本社会の変質がおきており、エリートの特別階級ができつつあること。日本には国家の戦略がなく、「外圧」のもと官僚と企業の戦略で動いていること。革新(左派)が「暮らしを守る」と主張するだけの保守政党となっていること。ぱらぱらめくると、時代認識や未来の予見でおおきく外しているものはなく、その後の田原の活躍もうなずけるところだ。

 

日曜日のデデポッポ

日曜日の朝、外に出ると、デデポッポポー、デデポッポポーと、どこからともなくのどかな調子のキジバトの声が聞こえる。こればかりは、住む場所が千キロ離れようが、50年の時間を隔てようが、変わらない。

それで、ブログに、「日曜日のデデポッポ」という記事を書こうと、タイトルだけ先に決めてしまった。内容はたいしてなくても、このタイトルが気に入ったので。

キジバトの声は、特定の音源からというより、風景全体になじんで低く響いているようで、遠近をつかみにくい。しかし、意外と近くの電線で鳴いていたりするものだ。今朝もすぐにその姿を見つけることができた。

僕が小学生の頃は、土曜日は半日の授業があったから、朝家でゆっくりくつろげるのは日曜日だけだった。小さい僕も、やはり家族が起き出す前に家を出て、少し遠くの町まで遠征したりする。その時町に響いていたのは、このデデポッポだった。

その頃の僕は、その声をどんなハトがどの場所で出しているかなんて関心はなかった。ただデデポッポを耳にしながら、ひたすら自転車を走らせて、帰ってくると、父母と姉といつもより遅い朝食をとった。

デデポッポポー、デデポッポポー、と続く鳴き声は、いつも、デデで、不意に終わる。