大井川通信

大井川あたりの事ども

『呪われた腕 ハーディ傑作選』 トマス・ハーディ 2016

1968年に新潮文庫で改訳発行された短編集を、近年「村上柴田翻訳堂」(全10冊)の一冊として改題して復刊させたもの。トマス・ハーディ(1840-1928)の小説で今新刊書店で手に入るものはこれだけのようだ。

サマセット・モーム(1874-1965)の『お菓子とビール』を読んで、その小説世界にぐっと引き込まれた。大作家ドリッフィールドのモデルが、当時の国民的な文豪だったトマス・ハーディだと知ったので、作中の存在感あふれる姿にひかれて手に取ってみたのだ。

ドリッフィールドは、お堅い世間に背を向けて、あらゆる階層の人たちと気安くつきあう生活を好んだ。実際に、ハーディーの短編には、いろんな階層の人たちがでてくるし、虐げられた女性が主人公の話が多い。彼女らが報われることはないのだが、作者の同情の視線が注がれていることは間違いない。

収録された8篇の小説は、たとえ短くとも魅力的なストーリーがあり、ドキドキしながら読み進めることができて、結末には意外さだけでなく十分な感慨があった。こんな風にはずれのない短編集は、僕の読書歴のなかではモーム以外にはない。ひょっとするとモーム以上かもしれない。

たしかにストーリーには誇張や偶然すぎる出来事が仕組まれていて、やや作為的な感じがしなくもない。しかし、登場人物は当時の階級差などの社会の組織の中に組み込まれつつも誠実に生きており、そのなかで精一杯あがくものの現実に押しつぶされる悲劇で幕を閉じる。そこには運命のいたずらが働いていたりもする。

たとえば『幻想を追う女』では、主婦兼女流詩人である主人公が、避暑地の宿泊地をたまたま共有する男性詩人にあこがれるものの様々な偶然が重なってあらゆるチャンスがつぶされ一度も会うことができない。男性詩人が自作へに悪評を知って自害してしまったあと、その女性も三人目の子どもを産んで亡くなってしまう。しかし残した子どもになぜかその男性詩人のはっきりした面影が宿り、それに気づいた父親によって浮気を疑われ、その子の将来の過酷な運命を暗示して小説は終わる。相手への強い思いで妊娠して相手に似た子を産むという同じ現象を扱って、夢野久作『押絵の奇蹟』のように情念に惑溺するのではなく、人生の皮肉をシンプルに突き出すのだ。

モームつながりで、よい本に出会えたと思う。

 

 

 

 

 

こんな夢をみた(人事異動)

とても忙しい部署に異動が決まってしまった。直接の上司は〇〇課長。部長は△△さん。どちらも実際にお世話になり、とっくの昔に退職した人たちだ。しかし夢の中ではそんなことは気にならない。

仕事は大学の教職員の人事だ。これは経験したことがないし、どのくらいの分量があるのかわからない。季節は秋ごろだろうか。これから年度の後半にかけて忙しくなっていくのだろう。自分の今の力でとてもこなせるとは思えない。

〇〇課長に話をする。実は大学院進学の準備をしていた。しかし業務との両立は無理だろう。1年で転出になったらうれしいが、自分のわがままを通すつもりはない。仕事上必要ならばもちろん上の判断に従う。すると、○○さんは、部長にその話をしたのか、と。

部長からの話は突然だったので、どういう反応をしたのかは自分でもわからない。身体が持つのかどうかとか、いろいろな不安がある。とりあえず若手と飲みに行く部長を追いかけた。田舎道のような広い坂道でおいついて部長に話をする。これからは酒の席もふえるだろうなと不安に思いながら。

 

 

早朝のファミレスで作戦を練る

大村さんとの対話に端を発して、井手先生への宣言、どうあげ女史への相談を通じて、僕の研究願望はしっかり頭をもたげてきた。どんな形で実を結ぶのか、結ばないのかはわからないが、テーマ的にも年齢的にも今回のチャンスを逃したら、今後の人生で研究にアクセスする機会は訪れないだろうという気がする。

土曜日の早朝ファミレスで、しばし思案にふける。これから準備を始めるにしろ、今までやってきたことをベースにしてそれを提示できるものにすることが肝心だ。いかにそれが薄くて物足りなくても、ゼロから始める準備ではたかが知れている。

そうすると、やはり「大井川歩き」のレポート化が必須だ。それには、自分なりの批評の実践と、民俗学社会学文化人類学歴史学、教育学、近代化論、コミュニティ論、自然認識等々の理解が含まれていたはずである。つたないながらもフィールドワーク(聞き取りやその書き起こし、絵本化)も行った。これには時間だけでいえば10年以上の思索と実践の積み重ねがある。この延長線上に、民衆宗教への問題関心もあった。今まで書き散らした雑文、作文をベースに、大井川歩きの成果物をまとめるのが至上命題だろう。

もともとそれを目指していたはずだが、明確な目標がないためにうやむやになっていたのだ。集中して継続的に行えば、半年くらいで(今年度前半の9月まで)でどうにかなるかもしれない。正規の論文ではないのだから、雑多なレポートで構わない。ただし、自分がやりたいことの輪郭だけははっきり出したい。吉田さんとの勉強会を進捗管理の場所とすることができるだろう。

もう一つは肝心の金光教理解を深めないといけない。教義と研究書への継続的な取組が必要だ。一方、その理解を支えるための宗教学、仏教学、哲学等の研鑽を続ける必要がある。ここでも従来からの取組の延長線上が基本となる。これも時間だけでいえば学生時代以来40年の経験があるはずなのだから。

浄土真宗近代教学(中でも清沢満之)、鈴木大拙梅原猛の仏教論、西田、廣松、今村、橋爪ら哲学者等の宗教理解。それらを通じて、僕なりの金光教(民衆宗教)理解の大風呂敷をできるだけ広げられれば、そのうちどの部分が研究の対象となりうるのかが見えて来るだろう。これも半年を区切って取り組もう。行橋詣での井手先生との対話が進捗の試金石となるだろう。

さらに必要なのは、語学である。今後の研究環境で実際にどのくらい語学力が問われるかはわからない。しかしこの点で可能性を狭めたくないというのもあるし、研究分野がきわめて日本的であることからいっても、論理的思索力を維持するために語学をやることは不可欠だろう。今は、英文では、金光教浄土真宗の一般書や批評を読んでいる程度だが、手元の興味ある学問分野の英書にはできるだけ多く手をつけたい。

自分に欠けているのは、ICTへの適応力だ。これは本来仕事上で身に着けておくべき分野であるはずだが、愚痴を言っても仕方がない。身体レベルでの苦手意識があるが、現代的な学習、研究環境に必要なレベルは今から泥縄で到達しようと思う。

どうあげ先生に相談する

どうあげ先生に電話をして吉塚駅前で会う。そのことを記事にしていいかどうか迷ったが、ブログ内を検索すると、わずか半年前にどうあげ先生についてかなり踏み込んで書いている。記憶はいい加減なものだ。

用件はこうだ。金光教についてより広い視野で考えてみたい、研究対象にしてみたいという気持ちが生じたのが、大学院をどう利用したらいいのか、研究者を目指していた経験からアドバイスをもらおうというものだ。

どうあげ先生は、自分の研究歴についてざっと話してくれた。出身大学でギリシャ哲学を学んで、大学院は京都に進みたかったこと。そこに落ちて、まったく考えてなかった九州大に合格したこと。イギリス留学でプラトンの権威である教授の下で研究し、博士号の取得と研究者での就職を目指していたが、いくつかの事情から断念したこと。そのあと、大学の助手と予備校の英語講師の稼ぎが良く、奨学金を完済したこと。彼女はそのあと行政書士の資格をとって開業し、商売を軌道にのせている。

どうあげ先生のアドバイスはこうだ。正式な大学院の入学手続きでアプローチすると「警戒される」(経歴と内容からして不審に思われるということか)だろう。それより、これはと思う先生を探して、個別にアプローチした方がよい。書いたものを送って読んでもらうのもいい。良い先生なら、そういうアプローチは喜ぶはずだ。そこで相談することで、聴講生から始めるなどの方法をアドバイスしてもらえるだろう。自分のやりたいことから優先順位をつけて、ダメ元で当たってみたらいいのではないかと。

実体験に基づくアドバイスで、僕が漠然とイメージしていたことの扉が開かれたような感じがした。ただ、イメージが具体化すると、自分のやってきたこと、考えてきたことがそれに耐えうるかというリアルな話になる。ぐっと身が引き締まる。

もともとどうあげ先生とは、ウマが合うと一方的に思っていたが、気が付くと2時間があっと言う間に過ぎていた。どうあげ先生も同じ感想をいってくれたので、それもうれしかった。

 

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大手拓次を読む

文学者の忌日にその作品を読むという取組は、ここ数か月、スルーに次ぐスルーを繰り返してきた。しかし大手拓次(1887-1934)は、せっかくの機会を逃したくない。

学生時代から魅かれてきたとはいえ、そこまで作品になじんできたわけではないが、近年の偶然の邂逅からぐっと距離が縮まった気がする。前橋の朔太郎記念館で大手拓次展に出くわすと同時に、地元の読書会で拓次の詩集が取り上げられたのは、ほんの数年まえだ。

読書会は新編集の岩波文庫だったが、今回は昔からある白鳳社版(1965年)の詩集にざっと目を通す。こちらの方がずいぶん読みやすい詩が集められている印象がある。まだ多くの資料が出そろう前の拓次のパブリックイメージ(幻想と怪奇の独身詩人)に合わせた選集になっているからだろうか。

今日で、大手拓次没後90年。

 

わたしの耳は/金糸(きんし)のぬひはくにいろづいて、/鳩のにこ毛のやうな痛みをおぼえる。/わたしの耳は/うすぐろい妖鬼の足にふみにじられて、/石綿のやうにかけおちる。/わたしの耳は/祭壇のなかへおひいれられて、/そこに隠呪(いんじゅ)をむすぶ金物(かなもの)の像となつた。/わたしの耳は/水仙の風のなかにたつて、/物の招きにさからつてゐる。 (「金属の耳」)

 ※縫箔(ぬいはく)刺繡と金銀の箔で文様をあらわした衣装。

 

わたしは足をみがく男である。/誰のともしれない、しろいやはらかな足をみがいてゐる。/そのなめらかな甲の手ざはりは、/牡丹の花のやうにふつくりとしてゐる。/わたしのみがく桃色のうつくしい足のゆびは、/息のあるやうにうごいて、/わたしのふるへる手は涙をながしてゐる。/もう二度とかへらないわたしの思ひは、/ひばりのごとく、自由に自由にうたつてゐる。/わたしの生の祈りのともしびとなつてもえる見知らぬ足、/さわやかな風のなかに、いつまでもそのままにうごいてをれ。 (「足をみがく男」)

 

いつさいのものはくらく、/いつさいのおとはきえ、/まんまんたる闇の底に、/むらがりつどふ蛙(かへる)のすがたがうかびでた。/かずしれぬ蛙の口は、/ぱく、ぱく、ぱく、ぱく、・・・・とうごいて、/その口のなかには一つ一つあをい星がひかつてゐる。 (「蛙の夜」)

 

 

 

 

 

 

天神で喜多方ラーメンを食べる

僕のきわめて貧弱なB級グルメ生活においても、それなりのドラマはある。僕が唯一その関わりが自慢できる「すた丼」のチェーン店が福岡天神に出現したこと、餃子の王将が地元に3度目の返り咲きを果たしてくれたこと、トマトラーメンの「発見」等々。

そして、とうとう喜多方ラーメン坂内のチェーン店が九州福岡に進出した。坂内は、かつてキャナルシティのラーメンスタジアムに出店していて、他の地域のラーメンとはまったく違う風味に魅了されていたのだが、退店後は、東京に帰省した折に食べるだけになっていた。

東京では隣街の立川にも出店していたし、都心だとかなりの密度で店がある。そこまでの人気店ではないので、昼時でもあまり並ばずに食べられるのもよい。

薄味でくせがなくさっぱりと食べやすいが、ラーメンとしてそこまでうま味があるものではない。ポイントは焼き豚だ。ふつうのラーメンでも、厚みのあるチャーシューが5枚入っているし、チャーシュー麺なら、丼を埋め尽くすくらい載っている。チャーシューの形状も味付けも店によって意外と違うのだが、基本的に麺とおなじく薄味で柔らかく食べやすい。このチャーシュー目当ての客が多いような気がする。

天神出店の情報は先月から得ていたけれど、はじめのうちは並びそうだしいずれ行けたらと忘れていた。妻に赤坂のアクセサリー屋さんへの納品を頼まれて、いざ帰ろうとしたとき、ふと喜多方ラーメンのことを思い出した。たしか天神でも赤坂寄りではなかったか。

調べると、地下鉄赤坂駅からは目と鼻の先だ。坂内のラーメンがこんな身近で食べられるのはうれしい。僕の職場からバスが一本で行けて、帰りも店の前のバス停から博多駅まで簡単に戻れる。アクセスは「すた丼」に負けないくらいだ。身体には坂内の方がよさそうだし、これからは選択がなやましい。

 

 

 

 

『光と風と夢』(中島敦 1942)から

・・静かだった。甘藷の葉摺の

外、何も聞えなかつた。

私は自分の短い影を見なが

ら歩いてゐた。

かなり長いこと、歩いた。

ふと、妙なことが起った。

私が私に聞いたのだ。

俺は誰だと。名前なんか

符號に過ぎない。

一體、お前は何者だ?

この熱帯の白い道に

瘦せ衰へた影を落して、

とぼとぼと歩み行く

お前は?

水の如く地上に来り、

やがて風の如くに

去り行くであらう汝、

名無き者は?

 

※A4の原稿用紙一枚に、以上のように行分けして書き写したものが、父の遺品の中から見つかった。タイトルも引用元も書かれていなかったので、オリジナルかもしれないと思った。出典がわかったのは偶然だ。社報のエッセイとともに手書きの原稿をコピーして、父の葬儀の参列者に配った。晩年、この部分を書き写した父親の問いの重さに心を動かされる。

 

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「今年の日記から 製造所資材二課 松井恒弥」(リッカーミシン社報1968年12月号 随筆欄)

 某月某日

 午ごろ一家で街にでた。この春最高とおもわれる暖かさである。山吹れんぎょうの黄、木蓮の紫、雪柳の白、等々、多彩な色の饗宴に花の春は今が盛りかとおもわれる。

 オモチャ・フレンドで安彦にリモコンのジープ、玉田で倫子に約束の自転車をかった。玩具屋での安彦のショッピングの興奮、倫子の新しい自転車との対面の感激、ともども脳裏に焼きつけて帰路についた。

 よろこび弾む子供たち同様、いやそれ以上に親としての充実感に浸りつつ・・・。

 あるか無きかの風に桜が散って風花のように舞って美しい。

 某月某日

 ・・・さて百花繚乱の花の春もそろそろ峠を越し、自然は「新緑潮の如し」とかつて荷風のいった若葉の季節に入ったようである。つい先ごろまで華麗さを誇っていたつつじも今はほとんど花片を落し、緋毛氈を敷いたような美しさを路辺のあちこちに見せるばかりとなった。今年の春も殊更に花の遠出は出来なかった。しかし与えられた自己の範囲内ではせいぜいその恩寵に浸ったつもり。

 さりゆく佐保神に一抹の哀別感を禁じ得ないものの、豊かなその美酒に酔った身には格別の悔もないようである。

 某月某日

 島秋人の「遺愛集」を読了した。

 飼をはこぶ蟻につききてあみ塀にさえ切られたり死刑囚われは

 夢なりと凍み入る獄の壁に触れ目覚めては得る命なりけり

 土近き部屋に移され処刑まつひととき温きいのち愛しむ

 死を宣告され生を極限されたもののみが味うであろう生への飽くなき執着と呻吟、その間にてんめんする宗教的諦観と静謐さ、高度の抒情性等、読後感慨少なからぬものがあった。著者島秋人は強殺人のいわゆる極刑囚だそうだが、その彼をかくまで高く昇華なさしめた秘密は一体どこにあるのだろう。それは獄中日毎に続けられた死との真剣な対決ではなかったろうか。まこと死への凝視は  ー  生の有限を再確認することは、人生如何に生きるべきか、あるいは感じるべきかの貴重なスタート台になりそうである。日常茶飯の瑣事にいたるまでも光芒化した「遺愛集」の著者と作品は、期せずしてそれを私どもに教示してくれているかのようである。

 流石梅雨中で大小の雨が飽くことなく降っては止みしている。くちなしの芳香、あじさいの色彩がその陰湿さの中でせめてもの救いである。

 某月某日

 国分寺跡を久しぶりに散歩  ー  二十余年前はじめてこの地を訪ねた頃は、「国分寺擲(なげう)てば瓦もかなし秋の声」の蓼太の句も自からな荒涼たる遺跡風景がまだ残されていた。しかし周囲に家がふえ半ば公園化したこの土地に、すでに詩情を求めるのは無理なようだ。度重なる国分寺参りも恐らくはこれが最後となろう。

 某月某日

 円空仏にこのところ取りつかれている。私には殊更な、仏像趣味はない。白鳳天平の諸仏もその荘厳さに魅かれはするものの、あるときはその装飾趣味にまたあるときはそのエキゾチシズムに反発すら感じる。しかし円空はひとり別のようだ。既成仏像には見られない斬新な主題処理、一木に彫りつける刀痕のタッチの雄勁さ、それにも増してそれら微笑仏の、微笑の数々は!

 一見稚拙にもみえるその微笑のおおらかさは、凡そ非凡なるが故に私は著名な弥勒菩薩の微笑より、あるいはジェコンダのなぞのそれよりもしたわしく思われる。敢て仏像に限らず漸近私の嗜好は簡素素朴なものへの傾倒が著しくなった。

 これをわが好みの老成を示すものとして喜ぶべきことであろうか、あるいは若さの退潮と悲しむべきなのだろうか・・・。

 窓外では今日も蝉の声がしきりである。

 

 

今あるもので満足すればいいじゃない

モームの小説には、紙面から浮き上がってくるような名言が多い。『お菓子とビール』から。

ロウジ―は、若き医学生のアシャンデンが、彼女の男関係を嫉妬するのを知って、こんなふうに言う。

「どうして他の人のことで頭を悩ますの? あなたにとって何の不都合もないじゃありませんか。わたし、あなたを楽しくさせてあげるでしょ? わたしといて幸福じゃないの?」「すごく幸福さ」「だったらいいじゃない。いらいらしたり嫉妬したりするなんて愚かしいわ。今あるもので満足すればいいじゃない。そう出来るあいだに楽しみなさいな。百年もすれば皆死んでしまうのよ。そうなれば何も問題じゃなくなるわ。出来るあいだに楽しみましょうよ」

 

 

行橋詣で(2024年4月)

年度末と年度初めの多忙さで、自分自身と自分の暮らしの矮小さにあらためて気づかされる中、気を取り直して、新年度最初のお参りにでかける。国東半島の両子寺の有名な仁王像の誕生年が金光大神と同じ文化11年(1814年)であることの縁で、寺で売られていた両子米2キロをお持ちする。

この間、勉強ができなかったことを正直に告白しつつ、やはりこの間の決意についても告白しないわけにはいかない。

昨年7月に訪ねて以来、金光教についての疑問に取り合えず自分なりの見通しが持てたこと。一つには、高橋一郎の著作によって、金光教が哲学的に優れた純度を持っていることに確信をもつことができた。もう一つは、その教えの内容を継承・実現する高度な仕組みとルールをもっていることにも気づかされた。ポイントは教祖の行いを反復する現「金光様」のモデル性、さらには直接の「親先生」のモデル性である。

後者の具体的な現れとして、先日久しぶりに伺った東郷教会の津上教会長のたたずまいに気圧(けお)された話を出した。金光様や親先生をモデルにして、教会の広前で「難儀な氏子」を助けるために神に取り次ぐというシステムは、それだけの人格を生み出すのだろう。

信仰については、認知症になっても死ぬまで続けることができるが、頭を使う研究は今しかできない。部外者で僕のような「発見」を口にしている人はいない。雑文やメモを書き散らすだけでなく、できればそれを多少とも客観性のある「論文」として発信したい。そのための手立てと機会を求めること。

後半は、読書についての話になった。井手先生は、A4版のルーズリーフ用紙で、詳細な読書ノートを取っておられる。僕との話題に出た清沢満之鈴木大拙についても、それぞれ手書きでびっしり文字が埋まった数枚分のノートをとっており、先生の勉強の徹底ぶりに驚かされた。

また先生は、宗派の専門用語を使わずに、いくつかの動詞を中心にご自分のつかまれた教えの内容を展開するような著作を計画しているという。なぜ動詞かとお聞きすると、それが人をつなげるものだからとおっしゃる。

大言壮語してしまったからには、一歩ずつでも前に進んでいこうと高揚した気分のまま帰りの電車に乗った。