大井川通信

大井川あたりの事ども

教区信徒研修会に参加する

教会に貼られたポスターを見て、参加を決める。金光教の勉強を深める機会になると思ったのだ。ふだん信奉者の方々の話を聞くことはないので、それができたらとも考えた。だから、研修会だけでなくその後の懇親会にも申し込んだ。

400人近い規模の研修会のあと、場所を移しての懇親会の参加者は、教師も含めて40名強程度だったと思う。信奉者30名については、一分間スピーチの自己紹介の場面があった。投票による優勝者には景品がでるという企画だった。

ベテランの教師や信奉者が多く、年齢層は高めなのにも関わらず、こうしたやり方は近年のファシリテーションで使われる手法で若々しく風通しのよいものだ。誰もが平等に一分の持ち時間(ベルで知らされる)というのもいい。組織が中心ではなく、一人一人の思いと願いが出発点であるという金光教の理念がこのような場にも活かされているのかと感心する。

自己紹介を聞くと、信徒として三代目以上の方が多い。初代どころか勉強歴3年という僕は本来場違いであるはずだが、実行委員長の方からは、僕の申込で最後の欠員が埋まって嬉しかったと名前を出していただき、他の同世代(以上)の方二名からも、噂をお聞きになったのか、名前をあげて哲学的な議論ができるのが楽しみだと言っていただける。権威を笠に着ることなく好奇心が強いというのは金光教の人たちの特徴のような気がする。

一番驚いたのは、僕が若いころ仕事でお世話になった方が出席されていて、その方が合楽教会の教会長の身内の人であったことだ。教育行政での活躍を遠くからながめていたのだが、お人柄や仕事ぶりの背景に信心があったのかと納得する。

テーブルでの歓談でも、周囲の方と、ごく自然に金光教への思いについて言葉を交わすことができた。信奉者と結婚して金光教を知った女性とは、教外から教えに触れた信奉者初代こそ、金光教の良さがわかるし、その発信の必要性を感じるということで意気投合する。懇親会の場で何より確認できたのは、結界取次に従事する教師の方々にだけでなく、信奉者の方々にも、人と人とが顔を見合わせ言葉を交わす場面に価値を置く流儀が根付いているということだった。

講師の西川良典先生にもご挨拶ができたが、井手美知雄先生の近況のお話をすると、少年のような無垢な笑顔になって、過去のお付き合いのことを懐かしそうに話してくださったのはうれしかった。

翌日電話で井手先生にご報告すると、教区デビューになりましたねと喜んでいただける。

 

『海竜祭の夜』 諸星大二郎 1988

高校2年生の時だった。武蔵境の駅前の本屋で平積みの漫画本の中から、友達の那須君が新刊の『妖怪ハンター』(1978年発行)が面白いと教えてくれたのは。

僕は当時ジャンプの連載で読んでいなかったので、諸星大二郎との初めての出会いだった。ちなみに、古書店でとんでもなく恐い漫画家だと日野日出志を教えてもらったのも那須君だった。

それ以来、諸星大二郎の作品を愛読してきたけれども、熱心に読んだのは80年代くらいまでで、それ以降は新刊を買ってコレクションするだけで、本気で作品に向き合ってきたとはいえない。あまり好みでない系統のシリーズをやったり、旧作の再刊が増えたりしたせいかもしれない。そもそも漫画や小説にひたるという経験からしばらく遠ざかってしまったのも大きかった。

ただ、今回、いくつかの作品を読み直すと、やはりとても面白いし優れている。オリジナルの単行本について、一冊一冊じっくり読み直してみたいと思うようになった。

まずは、新書判の『妖怪ハンター』の再編集版である『海竜祭の夜』から。副題に「妖怪ハンター」とある。A5判の大型版なのは、コマ割りが小さく文字の多い諸星作品にはありがたい。

新書判(全6話)からは、出世作の「生物都市」と作者自身が不満足という「死人帰り」が省かれている。「死人帰り」は作画とストーリーには確かに荒っぽいところがあるが、原初の超生命体が生み出した原始生命と疑似生命の対立を描き、地下の異空間で超生命体の復活に立ち会うという諸星節は捨てがたいところがある。

大判で読む他の4話は、名作の誉れ高い「生命の木」以外も、想像より古びておらずどれも面白い。70年代の作品は、青年誌に発表した「肉色の誕生」を加えた5話。対して80年代に発表された4話は、作画の緻密さもストーリーの解析度もぐっと上がって、読みごたえがあるものになっている。ただその分、説明の活字を追って知識を整理するのが重荷になったり、連作になると全体像がとらえにくかったりもする。

その中で、「海竜祭の夜」がやはり完成度が高い。カミ祀りの設定のリアリティ、祭日に向けての謎と緊張感の高まり、カミ祀りの奇怪なクライマックスとカタストロフィ。諸星作品の面白さがつまった傑作だ。地理的に壇ノ浦も近く、平家の落ち武者伝説の残った地域に住んでいることからの親近感もある。

 

ooigawa1212.hatenablog.com

ooigawa1212.hatenablog.com

 

 

 

デバリガナ文字を覚える

先月から小学生たちをネパール語の勉強をするようになってから、本腰を入れてデバリガナ文字を読み書きする練習をはじめている。

母音文字が10字、子音文字が32字、子音と母音を組み合わせるのに使う母音記号が10字。あわせて52字だから、日本語の平仮名を覚えるくらいの手間しかない。

しかし約2年間の独学で使えるようには、まったくならなかった。使用している教材が、カタカナの振り仮名があったり、ローマ字が併記されたりしているから、どうしてもそちらを頼ってしまう。サロズさんも、デバリガナ文字は覚えなくていいという。実際にネパールの若者もSNSなどではアルファベットを使っているようだ。

ネパール語教室は、ネパールで実際に教えられている小学校の教科書を使うから、振り仮名もローマ字表記もないし、ネパールでの通学経験のある子どもたちは、当たり前のようにデバリガナ文字を読める。突然日本の小学校に通い始めた外国籍の子どもみたいな心境だ。必死さがでてきた。

語彙も文法も遠く及ばないが、少なくとも文字が読めないとスタートラインにも立てない。それで、デバリガナ文字の書き取り(一文字5回程度)を毎日することにした。書き取りをすると、習得が早いような気がする。書いて覚えるのは、この年齢でも通用したのだ。

教科書をノートに転記して少しだけ予習をしてのぞんだが、今日の母語教室は、今度のお祭りの出し物の相談だった。授業がなくなってほっとしている自分がいたが、相談のあとで講師役のバストラさんは短時間会話の授業をしてくれる。

授業がない分、二人のボランティアの学生さんと話をすることができた。

一人は、ネパール出身の高校三年生で、日本の滞在歴は10年以上になるという。ネパール語の読み書きができて母語教室の手伝いや子どもたちの学習指導をしている。県内での大学進学を考えているようだ。

もう一人はミャンマーからの留学生。日本語学校には入学せずに、まったく日本語ができない状態で英語の入試で県内の国立大学に入学したそうだ。評価の高い大学だから英語の授業だけで卒業できる環境があるのだろう。友人たちとの会話で覚えたブロークンな日本語を使える。教育のレベルだけを考えたらその方がいいかもしれない。

僕がネパール語の学習をしているというと、ミャンマー語の文字も似ているとスマホで50音表を見せてくれた。一つ一つの文字もある程度似ているところがあるが、それ以上に50音表の整理の仕方、音の並べ方が全く同じなのだ。共通の根をもった言語であることが見て取れて面白かった。

 

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

 

会社で生きるということ・9月の会(13)2007年10月

※今日は、安部文範さんの忌日、もう4年になる。久しぶりに安部さんとの勉強会「9月の会」の古いレジュメを紹介する。以前第12回まで紹介したので、今回は第13回。前年の9月から始まった会も二年目に突入している。同じ年の3月の第7回で父親の仕事について考察しているが、今回は自分の仕事と会社体験を扱う。僕には今でもなまななましい内容だ。こういう話題を、批評や文学の問題と全く同じレベルで扱うという流儀は、やはり安部さんの影響が大きいのだと思う。11年続いた「9月の会」の名前は、9月から始めるからという理由で安部さんが決めたものだが、当初僕には安直な命名に思えて不満だった。ただ今になって思うと、9月が特別な月になるという予感が安部さんにあったのかもしれない。

 

2007年10月24日「9月の会」報告 

会社で生きるということ


【フレッシュマン】
 大学卒業後、「新卒」で当時の中堅生命保険会社に就職した。法学部の就職ゼミで保険法をやっていたから、少しは専門知識を活かした仕事ができると考えていたと思う。まだ終身雇用が当然の時代だったから、気分的には永久就職のつもりで、先のことなどほとんど何も考えていなかった気がする。何か別のスキルを身につけてステップアップしようとも(そんなカタカナ言葉はまだ流行らなかった)、社内で実力を蓄えて出世しようとも考えていなかった。

 就職して4ヶ月の研修で、まずのんびりした学生気分に冷や水を浴びせられた。一ヶ月はみっちり机上研修をしながら、10分間スピーチ等の訓練によって、一挙手一投足にわたって、明るく、はきはきとして、前向きな「フレッシュマン」になるべくチェックを受けた。研修期間中は、毎日ノート一頁分の日誌を書かされ、意識改革も促された。そのあと短期の自衛隊体験入隊をしたり、訓練で富士の山すそを駆け回らされたりしたあと、研修のメインの販売実習が行われた。三十数名の新入社員が3班に分かれ、班対抗で販売成績の競争を行う。班内では二人ペアごとに地区を割り当てられ、飛び込み(戸別訪問)で契約を獲得しなければならない。班には、リーダーとして先輩社員(「教官」)がつき、みんなで独自の班名を決めるなどして気分を盛り上げる。わがペヤも班も最初成績が伸び悩んだため、班で自主的なミーティングを重ねたり、住宅街の路上で販売方法をめぐってペアで激論を交わすなど、徐々に「その気」になっていった。

 深夜の班の反省会でこんなことがあった。十名程の班員が、車座になって深刻に話し合っているときに、僕が二列目に座っているのを見て、教官からそんな態度がだめなんだと叱責されたのだ。どこか斜に構えていた部分を見透かされたようだった。
 なんとかノルマの10件の契約をこなした後は、すっかり自信もついて、最後の支部実習では、実際に営業所に通い、新人の営業員に販売の指導を実地でできるまでになった。

 研修期間中は、役員などの話を聞いたが、その中で、初めは「会社」といってもイメージがわかないだろうが徐々に顔が見えてくる(人の集まりであることがわかってくる)、というような話が印象に残っている。また、支社長経験者の上司からは「保険とは愛を売ることだ」という信念を聞いたりもした。無理に不必要な契約を押し付けがちな実態から言えば(そこから大きな利益を会社が得ている実態から言えば)自己欺瞞としかいいようがないが、実際に死亡事故が起こった際には、家族から、保険のおかげで窮状を救われたと感謝されることがあるのだという。どのような仕事であれ、それに打ち込むためには使命感をもたざるを得ない。当時もその言葉を複雑な思いで聞いたと思う。

 研修終了後、北九州支社に配属になった。そこは、純粋会社人間養成所のような研修所とは違った泥臭い現場で、憑き物のような僕の「その気」のメッキも急速にはげていった。

 現場ではパワーのある支社長と、その子分格である営業所長が、さえない雰囲気の支部長たちを引っ張っていたが、その所長宅に泊めてもらったときのことだ。中途採用の彼らはわれわれとは違う、彼らは一回会社を裏切った人間たちだから、と耳打ちされたのを覚えている。

 研修期間中、教官の一人から、会社にとって本当に必要な人間は一割くらいという話を聞き、やる気に満ちた同期全員の姿を思い浮かべて意外に思ったものだが、仕事の現場で僕は徐々にお荷物社員になっていったのだと思う。今考えれば、単純で退屈な事務作業を正確に期限までに行うという覚悟、訓練ができていなかったのだ。学生時代の延長で、役に立たない思想書を読みかじったり、職場のOLにちょっかいをだしたり、やがて地元の歓楽街に出入りしたりという自堕落な生活を送った。  

 仕事のミスが重なり、転勤してきた新しい上司ともそりがあわなくて、ほとんど首になるような形で、3年間で退職した。上司にも、この男はこの先会社に役に立つことはないという判断があったのだろう。辞めるきっかけを与えてくれたことで、この判断には今では感謝している。

 辞めた後に、何人か同期入社の社員が心配して、小倉の街まで訪ねてきてくれたことがある。当時はありがた迷惑くらいに感じていたが、研修でともに苦労した同期を思って(彼らには取っ付きにくい、面白みのない男だったはずだが)自腹で駆けつけてくれた彼らのことを思い出すと、今は申し訳ないような苦い気持ちがする。

 3年間で辞めて、研修での苦労や、会社のためだからとそれなりに無理した部分がすべて無駄になったような気がした。しかし、日本経済がまだ順調だった時代に、金融機関の倒産など考えられない雰囲気(だから30年満期の生命保険の設計書を何の疑問もなく作っていた)の中で就職したあの会社も、バブル崩壊後の長期不況を経て、わずか10年ばかりで破綻して外国資本に身売りされてしまった。

 

【塾講師】
 東京に戻ってしばらくぼけっとしていたが、アルバイトニュースで塾の事務のバイトを見つけ面接を受けに行ったら、正社員の専任講師をやらされることになった。東京郊外の八王子を中心に5教室ほどを展開する進学塾で、30代半ばの塾長が学生時代に立ち上げた小企業だった。社員が10名ばかりだが皆若く、各教室には大学生のアルバイトも多くて、学生時代の延長のような雰囲気で楽しかった。むしろ自分は、大学の時あまり学生らしい生活を送っていなかったので、ここで初めて学生気分を味わったような気もする。

 午後10時の仕事終了後、明け方までファミレスで話し込んだり、湘南までドライブしたりもした。塾長はロリコンの気もある少し変わった男で、社員たちの信望はなかった。たまたまボーナスが出ないことをきっかけに組合を作ろうという話がもちあがり、普段はのんびりしている社員たちが目の色を変えて、自分の得意分野を活かして奔走する姿はおもしろかった。全国一般という支援組織からのアドバイス。深夜のホテルでの結成式。経営者への通告。塾長の「会社ごっこ」に対する「組合ごっこ」だったかもしれないが、組織を立ち上げる際の熱気はあったと思う。

 社員たちは、気のあったグループで集まると塾長と塾の悪口を言う。だけど、このメンバーが出会えたのも、塾長がそもそもこの会社をおこしたからだろう。どんなに塾長をさげすんでも、この場を作った者と後から集まってきた者との決定的な差を埋めることはできない。口にはださないけれど、そんな違和感を抱いていたのはよく覚えている。どんな中小企業でも、そこで働くものにとってそこは小世界、小宇宙であり、創業者はその世界の創造主なのかもしれない。

 僕はその塾を3年弱でやめた。退職後17年経つ今もその塾は健在で、ネットで見ると教室数も24に増え、経営は順調のようだ。

 

【公務員】
 30歳近くなって、試験を受けて福岡県の職員になった。これは今の仕事だから、冷静に振り返ることはできないし、目をそむけていたい気持ちもある。

 ただ言えるのは、大きな組織だが、営利企業ではないから、会社と似た部分とそうでない部分との両方がある。働き始めてまもなく、精神的に楽だなと気づいた点がある。会社では、社員に対してコストを支払って雇用している労働力としてみる目が根底にはある。だから、給料に見合った仕事をしているかというチェックは、身近な上司からも受けることになる。日本の会社は共同体だというが、営利を目的とする以上、人をコストとして冷酷に見ざるを得ず、働くものにはかなりのストレスになる。

 公務員はコスト意識がないといわれるが、上司にとっても、部下は「定数」として法令規則によって「天」から与えられるものだから、その割り振りに不満をもっても、良くも悪くも人件費との見合いで人の存在意義を否定するような発想を持ち得ない。

 一方、人が集まって何事かをしていく場合の、わずらわしいルールや決め事の面では、普通の会社と大差がないという印象だった。
 
【会社でモノを売ること】
 昔左翼の経済学者の次のような発言を聞いて、なるほどと思ったことがある。

 生産労働に従事するブルーカラーは、資本(会社)との距離をとることができるが、ホワイトカラー、とくに営業職は、会社の人間として対外的に振舞わないといけないから会社と意識が一体化しやすく、資本との距離が取りにくい。

 しかし、企業で働いた経験からいうと、資本との一体化などという抽象的な悪ではなく、もっと具体的な悪が会社員の精神を蝕んでいるような印象を持った。

 市場社会では、モノを売る場合、かならず同業他社のライバルの商品がある。モノによっては明らかに品質に序列があって、自分が売る商品が必ずしも消費者にとって最善の選択でない場合が多いだろう。たとえば生命保険であれば、当時の状況では明らかにスケールメリットからも大手の商品が優れていた。実際その後の経過で大手以外は多く合併、倒産の憂き目にあう。しかし、自分の仕事のためには、最善ではないものを最善と言い張って売るほかない。日常の仕事のなかに、構造的に「虚偽」や「欺瞞」を抱え込まざるをえないということは、精神にダメージを与える。

 保険会社をやめて塾に勤めたとき、不安定な職種ながらその点で気が楽になったことを感じた。たとえ塾としての評価はどうでも、自分のクラスだけは、自分の力だけでサービスの品質を上げることができる。それだけでなく、「保険屋」というイメージから解放されたのも大きかった。企業とかビジネスという美名のもとに、特定のものの売買に人間の全精力を調達するというあり方に息苦しさを感じていたのだと思う。

 

【法人という謎】
 塾講師をしていたころ、奥村宏の本に出会って、日本の会社というものの実像に目を開かされた。奥村は、純粋な学者というよりも新聞記者からのたたき上げの研究者で、現場での観察によって、株式会社制度という建前の陰にかくれた会社の実態に迫っている。

 奥村のキイワードは、「法人資本主義」「会社本位主義」「安定株主工作」「株式持合い」等である。そのポイントは、戦後日本で、本来自然人(個人株主)の所有すべき株式の法人所有を大幅に認めたために、法人同士が株式を相互に持ち合うことにより、自然人のコントロールから抜け出し、法人が自立することになった点にある。この自立をてこにして、会社本位主義が生まれたとし、企業の政治活動や犯罪などその否定面を見ていくのが奥村の視点である。

 奥村によれば、90年代のバブル崩壊以降、日本的な法人資本主義は崩壊過程に入ったという。確かに、昨今話題になるのは、自然人から自立した法人ではなく、自然人によってモノとして売り買いされる企業の話ばかりである。グローバル化の波の中で、日本の老舗企業も外国資本の売買の対象となっている。

 しかし、岩井克人によれば、個人株主(ヒト)から所有される法人というのは、法人制度の一側面の強調でしかなく、その見方が普遍的というわけではない。法人は、主体(ヒト)として企業財産その他を所有する。法人のその側面を強調し、最大限に引き伸ばしたのが、戦後日本の法人資本主義だった。近代の原則により、ヒトはモノを所有し、所有の対象にはなりえないが、法人という所有の主体を認めたときから、法人はヒトでありつつ、モノとして所有の対象にもなるという矛盾した性格を担わされている。

 岩井の指摘する論理は驚くほど単純なのだが、その単純な論理にあらためて教えられるほど、法人(会社)というものは、余りに身近にありつつ、人々の思考の対象となりにくい存在である。人々は、ごく当たりまえに法人に向き合い、あるいは自ら法人に成り代わって振る舞い、法人の「誕生」や「死亡」に自然な感慨をもって立ち会っている。まずは、その不思議さをあぶりだすことから始めなければならない。

 

▼参考文献
『法人資本主義の運命』  奥村宏   1995年  東洋経済新報社  
『会社はだれのものか』  岩井克人  2005年  平凡社

 

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

ペーパー版大井川通信を振り返る(その24)

大井川通信(その24) 2015.5.24  大井の滝/田熊の瀧

 

ご無沙汰しています。
実は今年に入ってから、この通信の発行部数を、一部から二部に増やしました。
もともと、大分市、といってもおそらくかなり山間の集落に住む美術家の諏訪眞理子さんにだけ送付していて、必要に応じてたまにコピーを知人や家族に渡していたのですが、通信の20号から、僕の故郷である国立市に住み続けている友人、関堅君にも送るようにしました。関君とは小中学校時代からの知り合いなのですが、深く付き合うようになったのは、大学時代、地元の公民館で地域活動をしたときでした。なぜ地域にかかわるのか、といった理屈を延々と議論しあった間柄です。
大井と国立、街と村、そして現在と過去とにひきさかれるように展開せざるをえない、この通信の送付先として、関君と諏訪さんという組み合わせは、まことに勝手ながら、僕にはとてもしっくりくるものです。
ところが、年度末の仕事のあわただしさと、新年度の思いがけぬ転勤で、通信の執筆のペースをすっかり見失い、3ヶ月の休刊となっていました。大井川に沿って歩きながら、思わぬ発見や驚きを味わうという生活は細々とであれ続けていたのですが。
ようやく新しい職場にも慣れ、大井川歩きの展望もまた少しずつ開けてきたところで、とりあえず、この間の出来事を報告することから再開したいと思います。

 

イノシシに出会う
大井の北側には、標高100メートルを超える里山の峰が東西に伸びているが、そこへ登る山道を探すのに少し凝っている。昔、里山と村の生活のかかわりが深かったときには、もっと道も整備されていただろうが、今は山に入る人も少なくなり、かつて通ることのできた道も今は藪にふさがれていたりする。
今日は、かつて小規模の炭鉱のあったという谷に入る。以前から、当時の施設や坑口の痕跡を探しているのだが、やはり黒いボタの破片くらいしか見つからない。山道の入り口を見つけて上り始めたが、やがて荒れた斜面をよじ登ることになった。ようやく西側の峰にたどり着いて、そこから三角点のある山頂を経由して、平知様(ひらともさま)のある東のピークまで「縦走」する。平知様の祠では、不ぞろいに組み合わされた石の隙間に古銭を発見した。幕末か明治に供えられたものだろうか。
いつもの山道を下りるときに、先にイノシシの背中がちらりと見える。このあたりではイノシシの被害が大きく、ハンターの銃声も絶えず聞こえるのだが、淋しい山で野生の姿に出くわすと、恐怖感が増す。道の両側の竹を杖で叩いて音をたてながら駆け下りる。

 

滝を見つける
別の日、今度は、古民家カフェ村茶乎(むらちゃこ)の裏から、里山の峰を目指す。途中、石の笠を被った吉田家の古い墓を見つける。村に納骨堂ができてからは、放置されているようだ。途中から山道が左にそれると、結局、枡丸からの山道で何度か来たことがある、村の共有林が植えられた谷に出てしまう。ところが、大雨のあとだから、谷の脇の沢の流れる水量がいつもより多い。沢の突き当りには、高さが6メートルばかりの、流れ落ちる水が白いしぶきをたてる立派な滝があった。観光地にでもあれば、ちょっとした名所になりそうな姿だ。
以前からそこは知っていたのだが、そのときは崖をわずかに水が伝うばかりだった。大井の低い里山が水源では、ある程度の雨量がないと滝には見えないのだろう。あとで、力丸睦子さんに聞いてみると、共有林の伐採のときに、若いもんが滝があるというと、おじいさん(夫)が「昔からあるよ」と答えていたという。
帰り村茶乎によって、店主の原田さんを連れ出し、二人でもう一度滝を見に行く。

 

「大井はじまった山伏」の銀杏切られる
飯塚の教育事務所に転勤になって、また車通勤の生活になった。運動不足になるので、昼休み事務所の周辺を歩いたりしているが、早起きした日には、調査もかねて大井を歩いたりもする。
早朝6時に力丸さんの家の前を通ると、睦子さんが腰をかがめて道路に落ちた銀杏の葉を拾っている。そういえば、以前会ったときも、銀杏の葉が道に落ちて、近所から苦情を言われるのを気に病んでいた。神様の銀杏だから、簡単に切るわけにはいかないらしい。ところが、今回はとうとう枝を切る手配をしたという。前日に村の秀円寺の和尚さんに拝んでもらって、そのときには枝を切る業者の人も同席したそうだ。
大井の名前の由来になったという大井戸(水神様)は今も残っていて、その脇の一本松が田んぼの真ん中で目立っており、大井のシンボルだと思っていた。しかし、力丸家の屋敷の銀杏のいわれを知ってからは、その大銀杏が、村の入り口付近で村を見守るもう一つのシンボルであることを理解した。
あるとき大井川の土手を歩いていて、村のはずれに虹の足が立っているのに気がついた。手前には大井戸の一本松があり、その向こうには「大井はじまった山伏」の大銀杏が見えて、さらにその先に、虹の足がくっきりと見えるという大井ならではの風景に僕はうっとりとした。
しかし、今回の伐採では枝だけではなく幹も低く切ったために、遠くからではまったく目立たなくなってしまった。それは少し残念だけれども、一人で銀杏と石仏様をお守りしてきた睦子さんの気が少しでも休まるなら、それは仕方のないことだろう。

 

手作り絵本『滝が流れた』
夫婦でようやく完成させた3冊目の手作り絵本に、次のようなあとがきをつけた。

瀧(たき)は、大井の隣村の田熊(たぐま)にある集落で、江戸時代の本にも、その名前は出てきています。しかし今では、その地名は、正式の住所としても、自治会の組名としても使われていません。
明治の初めの地理書には6軒の家があると記録されていますが、今でも屋敷の数はそれくらいですから、村の姿はさほど変わっていないのでしょう。
目の前は広い田んぼ、背後は樹木で覆われた低い岡。大地震があった時にその岡からあふれた水が、滝のように流れ落ちたのが瀧という地名の由来だ、と教えてくれたのは、散歩の途中で出会った村人でした。今は亡くなった村の方から聞いた話だということで、今回は、それをもとに絵本をつくりました。もっとも、滝つぼに竜が見えた、というのは創作です。
瀧は、大井村のすぐ隣ですから、大井の人たちにもなじみが深く、ひろちゃんこと吉田弘二さんも、子供の頃、瀧畑に遊びにいって、石器や土器のかけらをひろったそうです。
昭和の初めの神社の本を見ると、瀧神社の由緒として、平安時代の延暦の頃、弘法大師がやってきて雨乞いをした話が書かれています。村人も、お正月に家族でお参りをしたことや境内で相撲をとった思い出を教えてくれましたが、今では、岡の上の小さな空き地が神社だと気づく人は少ないでしょう。
残された石灯篭には、「弘化三年 八月吉日 瀧中」と刻まれています。江戸時代の末の1846年に、瀧の村人一同で神社に寄進したという意味で、かろうじてこの小さな集落の名前と歴史をうかがうことができます。
神社にまつられた大きな石は、もともと古墳の石のようなのですが、それを眺めていると、僕たちには、なぜか弘法大師の呪術で封じられたひでりの神様の姿がうかんできたのです。

 

 

金光教研究会(第12回 2026年8月31日)

※今回たまたま怪談イベントに参加して、スピリチュアルブーム以上に怪談(怖い話、心霊談)については、いっそう多くの人が身近に感じていることに知った。スピリチュアルや怪談へと分散し潜在している超越への関心を、どうやって「本来の宗教心」へと接続するか、という問題関心を野中先生と共有して、様々なことを議論できた。以下は、当日の説明原稿として用意したもの。

 

イベント当日の怪談話者の二人の発言が印象に残った。「自分は、神も仏も信じないけれども、不思議なものは見える」「自分は霊感はないけれども霊の存在は信じる」

島村恭則の図式を借りるなら、現代人の多くは、自然の混沌をノモス化するための手段として「カミ祀り」(宗教)ではなく、現代文明の全面的な庇護を受けており、個人で混沌に対応する手段をもたず、このため「原初的恐怖」に直にさらされる可能性をもっているといえるかもしれない。

怪談に共通するのは、この「原初的恐怖」に襲われることは偶然であって、恐怖の対象の名前とその経歴が明らかでないことだ。だからこれに対処の仕様はないにもかかわらず、由来不明のおまじないや霊能者の力であっけなく退散させられてしまう。「原初的恐怖」から出現したモノである以上、現代社会の舞台でリアルな力を発揮し続けることはできないから、それが退出の落としどころなのだろう。

現代の心霊談は、「心霊」に対して個人的に働きかけをすることもないし、助けられた「霊能者」等にも謝礼以上の感謝をするわけではない。偶然の犯罪に立ち会ったときに警察官にすべて任せてしまう感覚といっしょだろう。

僕の上演した「ヒラトモ様」が、他の参加者の怪談と違う性格を持っていたことが興味深かった。名前もあれば由来もあり、その由来によって祟りを受けて、自らのかかわりによってその魂を慰めようとしている点。つまり「カミ祀り」のプロセスに則っているのだ。

諸星大二郎のホラー漫画の二編は、「カミ祀り」のプロセスの確立のあとで、それが失敗することのスケールの大きな恐怖を描いている。島は滅ぼされ、町の半分が抉られる。怪談ヒラトモ様は、人間たちがカミ祀りを忘れたことの祟りだが、諸星の「海竜祭の夜」のように、ヒラトモ様(平知盛)の慰霊に失敗した結果、村に敗戦がもたらされたという解釈を取ることもできるだろう。また、ヒラトモ様の里山が半分抉られているのは、自然(異界)との均衡を失った結果とみることもできる。

僕は以前から、大きな事件のあった現場を訪問することを続けてきた。単に原初的恐怖を味わうためなら、由来のある場所にこだわる必要はなかっただろう。現代社会の矛盾が大きな亀裂を生み出しながら、即座に埋め戻してしまう場所に立ちすくんで、カミ祀りのプロセスを体験したいという欲望があるのかもしれない。

 

 

恐怖の研究(第12回金光教研究会レジュメ)

※ここ一か月ばかりのブログ記事をピックアップしたものがレジュメのメインだが、諸星大二郎の作品評と「事件の現場」探訪記は過去の記事から選んだ。

 

恐怖の研究(第12回金光教研究会レジュメ)

【怪談を作る/怪談を聞く】

地元の街づくりのイベントで怪談を話すことになった。知人が企画するイベントで協力を求められたのだが、僕の方も大井川歩きでの実体験をベースにすれば「怪談」を作れるという目算があったのだ。以前作った紙芝居を使うことができるだろうし、それは大井川歩きの活動の一環にもなるだろう。

それで、実際にそのイベントの怪談話者を何とか演じることができて、イベントも成功したので良かったのだが、準備は予想以上に大変だった。また、当日のイベントで感じるところもあった。それを書きとめておきたい。

まず、準備段階のこと。

地元ではかろうじて平家の落人の墓として伝えられるヒラトモ様について、実際はどうだったのかを説明する紙芝居はある。近代化に翻弄される小さな神様の物語ではあるが、ホラーではない。ヒラトモ様発見直後の母親の詐欺被害は、自分の中ではつながりがあって恐怖を感じさせたのだが、第三者的には両者のつながりが弱い。

勉強会仲間の吉田さんと、職場の同僚の田中さん、中村さんの助言を受けて、怪談として説得力のあるものにすることができた。最後には、妻と次男からのアドバイスも受けた。

次は、イベント当日のこと。

駅前広場のベンチの座布団に座り、蝋燭型の照明が点在する駅前広場の一角で、周囲の50名くらいの聴衆相手に、6人の話者が順番で怪談を話した。雰囲気は予想以上に良かった。僕以外は、自分の恐かった実体験を自分の肉声で語るという自然なスタイルで、芝居がかった組み立ての怪談話は僕だけだったと思う。

おぼえている範囲でいうと、老人施設でお年寄りが落ち武者の幽霊を見て、そこに「霊道」が開いていたという話。お祓いによって幽霊は現れなくなるが、その施設の場所は、後日、霊能力のある人からも「霊道」があると指摘された。また、金縛りにあった話。女性の手だけの幽霊に足を握られる。また、金縛りと同時に不審な女性からの電話を受ける。防いだのは盛り塩。神も仏も信じないけれど、奇妙なモノだけは見えてしまうという話。事件の直後の現場を車で通ったときに、全くその事実を知らずに被害者のイメージを見ていたという。神職の家に生まれた男性が、幼児の頃、ビニール袋に包まれた半身の死体を見つけてしまい、家にまで死体に追いかけられた話。親戚の霊能者によってお祓いを受けることで、奇妙な霊の呼びかけを最後に救われたという。

かなりいい加減な要約で話者の方々には申し訳ないが、この少数のサンプルでも、人々が怪談(怖い話)として認識し、またそう期待する話の型を知ることができるだろう。

この世界には、奇妙なものが存在し、それは犯罪や事故のような明確な原因を持っているかどうかは別にして、この世のものに対する悪意や恨みや攻撃性を持っている。そういうモノに対する出会いは偶発的な事故みたいなものであり、お祓いやおまじないなどの外在的な手段によってかろうじて助けられるしかない。

奇妙で悪意をもったモノを包摂する超越的世界に対する信頼(信仰)はここにはない。だから、その攻撃を防ぐのは、これも我々の世界の外部にあるような理解不可能は秘術であり、われわれ人間からの積極的な対話や働きかけは想定されていない。

一方、ヒラトモ様の世界観が怪談と一線を画するのは、この神の怒りと不満が、人間たちが集団で行ってきたことの総和によるという因果関係であり、我々の側の自覚(紙芝居の語り)によって和解できるという物語構造にある。

今回の怪談イベントをきっかけにして、スピリチュアルブームとの関連で怪談の流行についてあらためて考えてみたいと思う。

 

【怪談版「ヒラトモ様の祟り」台本 2026.8.1.上演】

〈前説〉

みなさんは、宗像の小さな山の上にあるヒラトモ様という神様を知っていますか。宗像の伝説を集めた古い本には、こんな風に紹介されています。

「宗像の大井村の丘の上に、小さな石のホコラがある。土地の人はヒラトモ様と呼んでいる。ヒラトモ様は、壇ノ浦の闘いに敗れて、この里に落ち延びた平家の偉いお侍だ。追手に迫られ、自害したヒラトモ様を弔って、小さなホコラを建て、今も村中で毎年お祭りをしている」

しかし、私が歴史を調べると、平家のお侍の墓というのは真っ赤なウソであることがわかりました。だから、本当の神様の由来を、こんな紙芝居にしてみたのです・・・(一つ、聞いてみて下さい)

 

〈紙芝居1枚目〉

さあ、さあ、今から「ヒラトモ様」の紙芝居をやるよ。面白くてちょっと悲しい神様の物語だ。

宗像には、古墳群といって、小さな古墳がたくさんある山があります。今からお話しするヒラトモ様は、そんな古いお墓をめぐる物語です。

〈紙芝居2枚目〉

今から200年くらい前の江戸時代のお話です。村の丘のてっぺんに誰のものかわからないお墓がありました。あるとき村人が掘ってみると、刀やカブトやお金が出てきました。

〈紙芝居3枚目〉

それから50年ばかりたった江戸時代の終わりです。伝染病のコレラで村人がつぎつぎに亡くなりました。村人たちは、これをお墓から宝物を盗んだタタリと考えたのでしょう。名無しのお墓のわきに、小さな石のホコラをたてて、伝染病が収まるように祈りました。

〈紙芝居4枚目〉

ところが、明治維新がおきて、世の中は戦争の時代になります。村人も徴兵されましたが、村の神様は「和歌神社」という名前で、和歌の名人をお祭りしていますから、争いごとは苦手です。

〈紙芝居5枚目〉

そこで、人気が出たのは山の上の神様です。刀やカブトが埋まっていたのは、平家の有名なお侍のお墓だったのだろう。戦争のお願いなら山の上の神様がいいということになり、「ヒラトモ様」と呼ばれるようになりました。

昭和になると、徴兵された村人の無事を祈り、願いがかなって戦争から帰って来た場合にはお礼に木刀を納めていたそうです。日本の戦勝祈願のために村の婦人会が当番でお参りするようになりました。

〈紙芝居6枚目〉

今から80年前、昭和20年に日本が戦争に負けると、戦場から兵士たちが村に帰ってきました。しかし、平和の時代になったために、村人はヒラトモ様にお礼をしなくなりました。戦争のお願いをした神様のことを、みんな忘れたかったのかもしれません。

〈紙芝居7枚目〉

もともとは名無しのお墓だったヒラトモ様は、平家に関係のある戦争の神様にさせられたあげくに、今では忘れられて、もとの名無しの神様に戻ってしまったのです。

やがて、山の半分が削られて、みかん畑になりました。山の斜面にはソーラーパネルが設置されるようになりました。ヒラトモ様のいる山の上もずいぶん窮屈になっています。

〈紙芝居8枚目〉

村人から忘れられたヒラトモ様は、今、どうしているでしょうか。

木刀の代わりに、木の根っこの棒切れたちを家来にして、月明かりに照らされて、毎晩山のうえでお祭りを楽しんでいるのです。

(これで、ヒラトモ様の紙芝居を終わります)

 

〈間奏〉

・子ども:「紙芝居のおじさん! ヒラトモ様はなんて楽しい神様だろう。私も会いにいきたいなあ! ヒラトモ様のいる山を教えてよ!」

・紙芝居のおじさん:(急に怖い顔になって)「いや、それはだめだ。ぜったいにヒラトモ様に会いにいってはいけないんだ」

「仕方がない。本当のことを教えよう」

 

〈懺悔話〉

これは、私の懺悔話になります。

私が、この「宗像伝説風土記」を読んで、ヒラトモ様を探したのは、今から12年前の、寒い冬でした。山の中でやっとで見つけたヒラトモ様は、とても不気味な姿をした石の神様でした。人間みたいな形をしたたくさんの木の根っこが、ホコラを取り巻いていたのです。

私は怖くなって、無我夢中で、山を駆け下りました。ヒラトモ様に手を合わせることも忘れていたし、無意識に、ホコラにお供えしてあった古いお賽銭をつかみとっていたのです。 

これでヒラトモ様の怒りに触れてしまったのでしょう。

それから一週間後、私は一人暮らしをする母親から思いがけない電話を受けました。(リーン、リーンと携帯の着信音をならす)

「なんだい、母さん、・・お前に貸したお金って・・おれはそんな電話かけてないよ。・・いや、それは俺じゃない。・・なに、俺の職場の同僚のヒラトモさんという人が、お金を取りに来たって・・うそだろ・・で、いったいいくら渡したんだ。・・え、500万円!」

(一瞬、固まったあと、肩を落として観客に向かって話す)

そうなんです。私の母親は、こうして500万円を盗られてしまったのです。しかし、母親からお金を奪ったのが、今はやりのオレオレ詐欺ではなく、ヒラトモ様のタタリだったことを、私は誰にも話せませんでした。

それ以来、私はこうして、紙芝居をすることで、ヒラトモ様の霊(たましい)を慰めているのです。

だから、みなさん、(初めてヒラトモ様の写真をみせて)宗像の山の中でこのホコラを見つけても、絶対に近づいてはいけません。絶対に・・・・

 

【『恐怖の民俗学』(島村恭則  2026)を読む】

SB新書の最新刊の一冊。装丁や帯のキャッチコピーもおどろおどろしい感じで、紙面の作りもやや軽い。しかし、実際にはベテランの民俗学者が新しい領域で、しっかりと考えた枠組みを提案しているかなり本格的な論考だった。

人間は、自然のもつ人知を超えた力を「霊力」として認識する。霊力が凝集して固まったものが「霊魂」である。霊魂が意志や個性を持つようになって人格化したものが「精霊」になる。精霊は、人間に対してプラスに働くこともあればマイナスに働くこともある「善悪未分化」な存在と考えられていた。

この精霊を「カミ」として祀り上げることで、対話可能な存在として人々の願いを聞き自分たちを守ってくれる存在へと変換するようになった。こうしたノモス(秩序)化以前の、自然という圧倒的なカオス(混沌)がもたらす恐怖は、「原初的な恐怖」ということができる。

ところが時代が下って、精霊に対して、人間の側が「怪しい」「異常だ」と評価し始めると事態は一変し、「妖怪」として分類されるようになると、怖さは薄れ、娯楽の対象にまで至る。

しかし、「原初的な恐怖」は様々な場面で生き続け、かえって現代社会の非現実的(無機的)で境界的な空間において、それがなまなましい形で表現され始めているというのが著者の見立てだ。

この点は、先日の怪談イベントで、自分以外の話者がすべて名前も持たず因果も不明な何かへの恐怖を語っていた事実からも納得することができる。話者たちはそういう存在こそ最も怖いと直観していたのだろう。

著者は自らのフィールドワークでの聞取りを含む様々な民俗学的知見に基づいて、恐怖にかかわる現象をリアルに語っていく。

一方で、認知科学の成果を使って、これらの現象を、いわば種明かしのように人間の認知の癖として客観的に説明している部分もある。たとえば、境界線を見つけて安心する傾向(「境界線バイアス」)、物事の背後に目に見えない本質が潜んでいると考える「心理学的本質主義」、わずかな気配によって誰かがいると直観する「過剰行為者性検出」、伝承として生き残るための法則である「最小反直観性」(ルール違反がごく一部であること)等々の概念による説明がそれだ。

ただし、この小著だけを見ると、この二つが水と油のように思えてしまう。この二つを架橋するのは、著者が紹介する認知科学の「システム1(直観的思考)」と「システム2(論理的思考)」との関係の考察になるだろう。著者はそれを、単純な二項対立ではなく「民俗OS」と「科学OS」との二重のはたらきに読みかえている。

これはかつて西洋と東洋の対立や、日本における理論言語と生活思想との乖離として扱われていた問題にも通じる射程の大きな議論であると思う。だからこそ、いっそう認知科学の概念で民俗的な現象を簡単に読み解こうとする仕草に違和感を抱いてしまうのだ。

 

【諸星大二郎を読む】

・「海竜祭の夜」

諸星大二郎の妖怪ハンターシリーズ「海竜祭の夜」は、加美島という架空の孤島の祭りが舞台になっている。島には安徳神社があり、浜辺には鳥居が並んでいるが、不思議な事にその鳥居は陸に向わず、カーブを描いて再び海に向いている。

海竜祭は、壇之浦で平家一門とともに八歳で入水して死んだ安徳天皇の鎮魂のための祭りであり、海竜となった天皇の怒りを鎮め、海に返すための祭りだったのだ。祭りの当日には、検校役の村人によって海に向かい平家物語が朗誦される。

シリーズの主人公稗田礼二郎は、島出身の教え子とともに海竜祭に立ち会うが、この年に祭りでは、様々なアクシデントにより安徳様の鎮魂に失敗し、それを「安徳様のお迎え」として受け入れる島民のほとんどを津波とともに滅ぼしてしまう。

ヒラトモ様も、壇之浦で入水した平知盛のゆかりの墓を祀ったものだという伝承がある。僕の調査では、その伝承は明治以降に生まれた新しいものだが、それによって先の大戦中さかんに戦勝祈願が行われた。

しかし、その結果はどうだったか。平知盛の鎮魂には成功せず、日本内外に壊滅的な損害をもたらしてしまったのだ。戦後にヒラトモ様の祭りが途絶えたのは、村人の変わり身の早さによるものばかりとは言えないのかもしれない。知盛の怨念は、敗戦という「お迎え」によって最終的に実現し決着してしまったのだ。

僕は今まで、ヒラトモ様の供養のためにと思い、時々ホコラの前で平家物語の「知盛の最期」を朗読していた。今年の初詣では、怖くてそうしようとは思えなかった。

 

・「闇綱祭り」

昨年出版された『雨の日はお化けがいるから』所収のこの作品は、発表の雑誌で読むことができたから、該当ページをとりはずして保存してある。初期の頃のような、シンプルだけれども力強いイメージ。正直、今でも新作でこれだけのものが読めるのかとうれしかった。

冒頭から「均衡」という言葉が繰り返し語られて、文明論的な視点がテーマであることを暗示させる。大きなテーマを扱いながら、それを単なる理屈ではなく、独創的なビジュアルに落とし込むところが、諸星作品の真骨頂だ。

この作品では、それが社殿の半分だけで存在するという片身神社の異様な造形として、成功している。祭りの夜にだけ社殿のもう半分が現れて、闇の世界の住人たちとの綱引きが行われるが、それは儀式として引き分けに終わらないといけない。これが均衡ということだ。アクシデントからこちらの世界に引き込まれた闇の住人の、異類のような不気味な容貌がこわい。

綱引きの儀式が失敗し、闇の世界に飲み込まれた町の大半は、爆撃にあったように半円形にえぐられて消失してしまう。他界との均衡、自然との均衡を失った世界の、これも見事なビジュアルである。

闇綱引きの失敗によって、半円形にえぐり取られてしまった町のイメージ。これに近いのものが、大井川流域にはある。平知様のホコラがまつられた里山の稜線から向こう側はざっくりと削り取られ、ソーラーパネルが並べられている。確かに原発よりは安全な自然エネルギ―ではあるだろう。しかし、それすらも「均衡」を失ったものであることは、里山の無残な姿を見れば明らかだ。

 

 

【事件の現場で】

・博多一家四人殺害事件 2018-01-19

大井川周辺の聞き取りでも、何らかの事件や事故に関連して、その供養のためにまつられた石仏やホコラの話が何件もでてくる。旅の人間が行き倒れになった場所に不動さんをまつったとか、殺人のたたりから子孫を守るための地蔵とか、雷に打たれて人が亡くなった供養でまつった笠仏などの話だ。民話集にあるようなストーリーだが、どれも正式に記録などされてはいなくて、かろうじて少数の人が伝え聞いているものだ。

少し前に、神々は外部への情報端末ではないか、と書いたが、神仏が人工的に作った異界とのアクセスポイントであるなら、事件の現場とは、日常に無理やりこじ開けられた外部への穴であり、異界へ通じる亀裂だろう。その穴や亀裂にとりあえずフタをして、定期的な祭礼でメンテナンスするために神仏という装置が利用されたわけである。

ところが現代では、たいていの事故や事件の現場は何の処置もされずに、亀裂や穴はそのまま放置される。何もせずとも、絶えず更新される流動化した日常が、難なくその場所を修復してしまうと考えているのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。

ネット上にあげられた事件現場のレポートを見てみると、同じ現場に何度も足を運んで写真を撮っている人がいる。悪趣味だと思う人が多いかもしれないが、放置されたままの日常の亀裂にひきつけられて、その場所を記録せずにはいられないという心理の根底には、昔の人が事件や事故を手厚く供養したのと同じ思いがあるような気がする。実際に事件の現場を訪れて感じるのは、その土地が大きく均衡を欠いているにもかかわらず、バランスを回復する方途がないという感覚だ。

表題の事件は、2003年に、中国人留学生3人によって、夫婦と二人の幼い子どもが自宅で殺害されて博多湾に遺棄されたという事件である。交通量の多い国道3号から一本入っただけの路地の小さな敷地の二階屋は、事件後まもなく取り壊されて平地となっていたが、最近隣の区画と合わせてアパートに建て替えられて、すでに入居者がいるようだ。勝手な思い込みだろうが、この土地が負った傷はあまりに深く、うかつに目を離すことを許さないような力がある。

 

・北新地ビル放火殺人事件 2023-03-11

2021年12月17日に、大阪駅近くの大通り沿いのクリニック(心療内科・精神科)が放火されて27人が死亡した事件が起きた。犯人は、このクリニックに通院していた患者らしく、本人も死亡している。のちの報道では、亡くなった若い院長の人柄をしのぶ患者さんたちの声があった。院長は、働く中でメンタルに不調をきたした人たちの社会復帰に尽力していたという。

新大阪駅前に泊まって数時間の空時間ができたので、梅田まで出て大通りを歩いて現場を訪ねてみたが、想像以上の繁華街だ。巨大なビルが立ち並ぶ中で、6階建ての小さなビルは目立たず、気づかずに通り越してしまうところだった。

火元になった4階の窓はボードですっかりふさがれており、火災の痕跡はほとんど残されていないが、ビル自体は閉鎖されている。「働く人のクリニック」という看板だけはもとのままで、停止した時間をこえて何かを訴えているようだ。

小さなビルの小さな医院でのあまりに不幸な出来事をよそに、大都会はその巨大な歩みを続けている。ヒューマンスケールをはるかに超えた時空間に押しつぶされた人々の悲鳴のようなものを聞いた気がした。

現場からほど近い、巨大なビルの陰に、堂島薬師堂があった。球状に鏡を張られた外観のホコラが水面に浮かぶという近未来的な姿だが、道行く人が祈る姿は昔のままだ。どのように形を変えようとも、昔からの祈りの場所が維持されているというのはありがたい。僕も球形の薬師堂で頭を下げて、事件で亡くなった方たちの冥福を祈った。

 

ペーパー版大井川通信を振り返る(その20)

※ブログ版大井川通信に先駆ける「ペーパー版大井川通信」(全32号)の紹介シリーズ。すでに1号から13号までは2025年に掲載している。データのない14号から19号(及び21号から23号)はとりあえず欠番として、20号から再開する。大井川歩きを始めたばかりの熱気がうかがえて懐かしい。 

 

大井川通信(その20) 2014.12.31  年末の日々

 

10月30日(木) 京都嵯峨野

京都日帰り出張。午後からの会議の前の数時間、嵯峨野を歩いた。時計を気にしながら、名所旧跡が密集する整備された小道をあわただしく歩き過ぎる。玉乃井で観た映像のロケ地を見ようと、山麓の閑静な祇王寺に入った。平清盛の愛人だった祇王(ぎおう)が出家した場所だと音声テープが説明する。観光資源など何もないがらんとした大井と、その山上に取り残された「平家ゆかりの」平知様(ひらともさま)の姿が脳裏をかすめる。

11月8日(土) 巨石信仰

念願だった自宅から歩いての許斐山(このみやま)登山を決行する。王丸口から登って、福津市の八並側に下り、村山田経由で帰ってくる。山頂付近にまつられた熊野神社の小社の背後に迫る崖に、巨岩の立石がそびえているのにあらためて気づいた。これで巨石信仰についても、大井を舞台に語ることができると喜ぶ。 

11月15日(土) 新宗教

玉乃井の9月の会で、「オウム真理教」について報告する。地下鉄サリン事件から来年で20年。近代への違和感から出発した思想や信仰の極限形態として、押さえておかないといけないと思う。大井周辺を歩き回るなかで、伝統宗教の寺社以外に、いくつも新宗教の施設に出会っている。オウムの源流の一つとも言われる大本教の元教会とされる神社も聞き取りで判明したところだ。小さな祠や石塔・石仏の類は数がしれない。土地に染み付いた宗教の根深さ、豊かさを思う。

11月22日(土)23日(日) 国立・府中・国分寺

東京出張の後、連休を利用して国立に帰省する。隣町の府中を歩くと、街のいたるところに、昔の道の名前などとその由来が書かれた石柱が立てられている。いわゆる文化財の解説ではなく、少し以前の、しかし今は忘れられた人々の生活の有様を浮かび上がらせようという意図には好感が持てた。たとえば、ここはかつて役場に通じていたから「役場道」だという。この呼び名は、おそらく旧役場が存在した何十年かの間の通称にすぎない。しかし、それは我々の父母や祖父母の世代の出来事であり場所の記憶なのだ。まずはそれをしっかり受け取ることが大切ではないのか。

久しぶりに大国魂(おおくにたま)神社の広い境内に入る。父親は定年後、知人の紹介でこの神社で働いていた。天皇と神道が大嫌いで、家族を初詣に連れて行くこともなかった父親(大正13年生まれ)も、生活のための仕事に特に不満な顔を見せることはなかった。交通事故の障害で寝たきりとなった晩年、同室の患者が大国魂神社で厄除けに配られるカラス団扇を持っているのに気づいた父が、不自由な言葉でそれは自分の神社のものだと嬉しそうに訴えていたことを思い出す。大井にも、和歌神社の境内に国玉神社の小さな祠があるのだが、漢字は違うけれど同じ神様なのに気づいた。

翌日は、国分寺を歩く。いつものように国分寺崖線(ハケ)沿いに、国分寺跡まで。展示館で出土品の白鳳仏をスケッチする。今回の目当ては、かつて「イエスの方舟」が拠点としていた場所だ。そこはJR中央線の陸橋近くのテニスコートに変わっていた。

昼からは待ち合わせの喫茶店で、学生の頃の友人と本当に久しぶりに会う。彼は、国立の象徴とも言える駅舎の保存や移築の問題で消耗していた。かつて公民館や地域活動のことで喧々諤々やっていた頃を思い出す。大井歩きについても、昔のように議論できた。

12月20日(土) 花田清輝

11月末から福岡市文学館の連続講座に参加して、評論家花田清輝に取り組んだため、9月の会でそれを題材にする。一見どうでもいいようなエピソードを自由につないでいく花田の文章が、地域の記憶や物語を無作為に掘り起こす大井歩きのリズムに似ている、とやや牽強付会に関連づける。

12月21日(日) 大井始まった山伏

大井の古民家カフェ「村茶乎」によると、かなり高齢のおばあさんが、友達とお茶を飲みに来ていた。大正15年生まれで88歳の力丸睦子さんだった。話にうまく割り込んで昔のことを聞こうとすると、突然、おおいはじまったやまぶし、の話をしだす。

え、それは大井が始まる時代の山伏、ということですか。いやちがう、おおいはじまったやまぶし。だから大井に関連した山伏のことなんですよね。いや、おおいはじまったやまぶし。まるで禅問答だが、昔お姑さんから聞いた名前を覚えているだけで、意味はわからないということのようだった。めったにしたことのない話だという。

自分の屋敷内のイチョウの木の下に、「おおいはじまったやまぶし」をまつった石があるということなので、帰りに同行して見せてもらうことにする。大井の集落は田畑をはさんで村茶乎のある本村側と、和歌神社のある十力(じゅうりき)側に大きく分かれるが、前者には吉田姓が多く、後者は力丸、中山姓が多い。睦子さんの家は以前庄屋だった力丸の本家で、高い石垣とイチョウの木が目立っている。

案内されると、イチョウの根元に山形の偏平な石が手前に傾くように埋め込んであり、その前に祭壇が設けられている。睦子さんはこれを石仏(いしぼとけ)様という。こことは別に、大井の納骨堂に上がる石段の途中に、10人の山伏の墓地があって、今でも力丸の本家だけでお世話をしているという。イチョウの木は切ってはならないと言われていて、家の前の道の落ち葉を掃くのが一苦労だと嘆く。その神聖な銀杏の実を一袋分けてくれたので、持ち帰って家族で美味しくいただいた。

12月27日(土) 先祖祭り

妻の親の墓参りのついでに買った山伏様へのお供えのお煎餅を持って、さっそく睦子さんの屋敷へ。納戸の前で大声で話していると、初老の息子夫婦が不審そうな顔で母屋から出てきた。夫を亡くした睦子さんは、小さな離れに住んでいるのだ。

かつて力丸一統の先祖祭りが春一回あって、「食べごと」を力丸の7軒で回していたという。最後に、みんなでぞろぞろ連なって石仏に参拝し、次に山伏の墓地にお参りした。山伏は村人でないから納骨堂には入れず、その手前に墓があるのだと説明する。

睦子さんは23歳のときに、津屋崎の須多田からお嫁に来たそうだ。津屋崎に通じる用山越しの山道や須多田にある富士白玉神社(お稲荷様)の話で大いに意気投合し、氏子に毎年配られるという瀬戸物の狐をお土産にもらった。

12月28日(日) 力丸兄妹

久しぶりに用山の黒尊様(くろすみさま)にお参りする。祠のすぐ裏手、大井側のみかん畑の斜面が重機で整地されて地形がだいぶ変わっている。山上の神様も安泰ではない。

そのあと力丸弘さん(大正14年生まれ)を訪ねる。まとまった話を聞くのは、もう4回目だ。実は、その帰り農作業中の弘さんの妹、力丸瑞江さん(昭和9年生まれ)からも偶然話を聞くことができた。彼女は、睦子さんの向かいの力丸家にお嫁に行っている。

二人とも、山伏の話は覚えておらず、力丸家の先祖とだけ聞いているようだ。力丸家の先祖祭りは、「女の祭」だという。よそからお嫁に来た女たちが懇ろになるのが目的で、男は当番の家以外参加しなかった。そのためかえって男より女の結束が強まったそうだ。瑞枝さんの記憶では、祭りは25年くらい前までしていたという。

12月30日(月) 平知様ツアー

9月の会のメンバーで津屋崎在住の吉田知弘さんを、大井に招く。平知様をお参りしたあと、山頂の峰を伝って「縦走」する。途中いくつも古墳らしきものがあり、目的地の三角点(126m)は、なんと円墳の石室の真上に取り付けられている。映像の専門家の吉田さんは、それらを興味深げに観察する。ここは人を拒まない山ですね、とは吉田さんの感想。考えてみれば、集落から一キロ弱入ったくらいの里山である。今は荒れていても、もとは人々の生活と一体化した広場のようなところだったのだろう。

年末で営業は終了していたけれど、村茶乎の原田さんが薪をくべるストーブで暖まって、コーヒーを飲みながら、3人で話をした。

 

 

学習方針を泥縄式で立てる

10月と11月での実践研修(教育実習)までの期間が一か月となってしまった。土曜日の授業が終わってからの2か月半で、圧倒的に不足している実力と経験を補うという計画を立てたが、方針が決まらないまま半分以上が過ぎてしまった。

実践研修が終わったらすぐに就職活動に入らないといけない。その時にはある程度の能力の目途がついていないといけない。実践研修での底上げは期待できるけれども、基礎力に不安のまま受けても、結果的に半年間の授業と同じような効果しかないだろう。

8月のアジアンプラザでの実践で学べたことはあるし、それは大きい。基礎的な教育力と何よりそれを咄嗟に使える瞬発力が求められる。媒介語としての英語もやはり必要だ。

これからも毎週通うことになるネパール語母語教室は、こちらは学び手の経験だが、小学生たちとわいわいがやと外国語を学ぶのは貴重な体験だ。

この間、日本語教育の文法のテキストをやってきたが、今一つのめりこめない。自分の日常当たり前の言語活動に知的関心を抱きにくいというところがある。自分の唯一の武器はこの知的関心といっていいので、これが発動されなければ物覚えの悪い、情弱の初老のオジサンということになってしまう。

ここで思いついたのは、身近過ぎて知的関心を抱きにくいものは不自由な外国語で学習するという手法だ。これは、僕オリジナルの勉強法であるMメソッドの一分野であるといっていいだろう。仕事のためのマネジメントを学ぶときには英文の簡単なビジネス書のシリーズを頼りにしたし、金光教を基礎から学ぶときは福田美亮先生の英訳書を少しずつ読むことで理解を深めることができた。英文が強いる「減速」によって、わかりやすさの罠を免れることができるのだ。

定評のある日本語初級の教科書には、英文の解説書があって、参考書としてもっていたのだがほとんど見ることはなかった。残り一か月、この解説書を基本書として集中的に学習して、日本語の初級の内容をわが物としよう。このことは、英語を日常的によむことになるという一石二鳥的な利点がある。

さっそく始めてみて、比較的薄いテキストに集中できるという良さを実感できたし、英文解説を経由することで、日本語文法に対する興味を持続することができるような気がする。もう、あとがない。がんばろう。

 

 

『神の子どもたちはみな踊る』 村上春樹 2000

読書会で村上春樹の近年の短編集を読んだけれども物足りなかった。それで昔単行本で買っておいた世評の高いこの短編集をはじめて読み通してみた。これは僕にとって(少し大げさに言えば)長年の宿題でもあった。

面白かった。個人的に採点すると◎が4作品、〇と△が1作品ずつで、『一人称単数』とはまるで違った結果となった。これが本来の村上春樹の実力なのだと納得できた。だとしたら、何で近年の作品があれほど振るわないのだろう。そこから読書会のための課題図書の読みを作ることもできたから、自分にとっていろいろ意義ある読書になった。

村上春樹というと、僕は安部文範さんを思い出す。学生運動の時代の政治活動に挫折して、以後軟派に生きようと決意した安部さんは、イデオロギーから距離を置いてトリビアリズムと特異な空想を本領とする村上春樹に引き付けられたのだろう。学生運動の同世代からは毀誉褒貶があったが、80年代以降の若い世代からそのスタイリッシュな文体が支持されたような気がする。

ただ、僕には初期作品以外、文体なり発想なりに生理的に受け付けない部分があることに気づいて読まなくなってしまった。それで、村上ファンの安部さんと村上春樹の作品を読むという企画をはじめてみた。『1973年のピンボール』が存外よかった。『羊をめぐる冒険』は何度読んでも印象不鮮明。初めて読んだ『世界の終わりと・・』はとても良かったが『海辺のカフカ』は面白くなかった。ストーリー展開とは別にキャラクター設定の説明を予めしてしまうのが不可解だった印象がある。

事情は忘れたが、この企画はここまでで終わった。安部さんが『神の子どもたちはみな踊る』を高く評価していたことをおぼえているが、一人で読もうとしても、どうにも生理的に受け付けない感じだったのだ。

今回通読してみて、相変わらず独特の村上節は邪魔をするのだが、この作品群には、作品がもたらす不可視の世界の深さのようなものが感じられるような気がする。全ての作品が言及している阪神淡路大震災のイメージが、そのために役立っているのは間違いないだろう。

村上春樹がオウム事件に興味をもって取り組んでいたことが不思議だったが、村上の冗談めいたトリビアルな世界を成立させていたのは、対極にある学生運動の革命騒ぎや大震災などのより広い世界の確かな奥行みたいなものだったのかもしれない。その感覚を失ってしまうと、後に残るのは、好みの分かれるジョークと饒舌、理屈癖になってしまうということなのだろうか。