大井川通信

大井川あたりの事ども

こんな夢をみた(神保さんの個展)

風邪をひいて職場を休んだ。風邪薬を飲んで、一日寝ている。そんな寝苦しい眠りの中で、こんな夢をみた。

 

自分の住む住宅街の岡をくだって神社の敷地に向かっているが、調整池がなかったり緑が深すぎるなど、現実とは様子がちがっている。「夢だからこうくるのか」と半ば楽しみながら神社に入ると、ここでは拝殿が広くて立派だ。中に入ってお参りしていると、あとからお参りのために入って来る人がいる。声をかけると、理解できない暗号みたいな言葉を話す。神社の門前に出ると、そこは荒れ地みたいになっていて、参拝客の車が駐車してあるが、どれもナンバープレートがない。どうやら彼らは異星人のようだ。しかしこんな話は「ウルトラマン」にはなかった、僕が見なかった「帰ってきたウルトラマン」の中の話ではないか・・・

ふと気づくと、美術館らしき展示室に立っている。今のシーンは、展示を見ることで夢の世界が体験できる作品の特殊効果だったのだ、と後付けで納得する。

そこは詩歌を読む読書会でお世話になっている神保さんの個展だった。神保さん自身の姿を撮った写真が並んでいるが、写真のなかの神保さんの顔が仮面のように単純化していき、実物のビニールの仮面の展示に続いていくという趣向。これはこわかった。

壁面に巨大な魚の絵が展示されていて、長文の詩が筆記されている。その中の「さ」と「ば」の文字に印がつけられていて、サバの絵だとわかる。詩の内容はたいしたことないが、あのアイデアはちょっと面白いねと見物客が話しているのが聞こえる。

サバの絵は二枚。夢導入装置に仮面のテーマもあって、小さいながらなかなか面白い展覧会だと思った。

 

 

『カキワリの劇場』 小林賢太郎 2023

一昔前、ツタヤ図書館と揶揄された新しい公共図書館のあり方が話題になった。その走りは武雄市立図書館で、どちらかと言えば図書館関係者からの批判の声が大きかったと思う。僕も旅行の途中で立ち寄ってみたが、図書館としては確かに目新しい空間だと思ったが、ごちゃごちゃしていて特別に魅力的だとは思わなかった。

ところで、一昨年、我が街のショッピングモールの一角に、カフェ併設型のツタヤができてみると、じつにこれが気持ちのいい空間なのだ。普通のカフェなら席を離れて出歩くことは想定されていない。しかし書店の本を見るための離席が前提になっているため、結果的にモールのフロアーとの行き来も自由になっている。トイレはもちろん、必要になった文房具を買いにいくこともできる。(こうした利用は好ましくはないのかもしれないが、施設管理上許容範囲ではあるだろう)

とても開放的で、居心地のいい場所なのだ。図書館機能などここに必要ない。書店とカフェとモールの組み合わせで十分だ。しかし、紙の本離れのために書店が苦戦する中、せっかくのこの場所もいつまで続くかはわからない。

その応援のためというか、よい環境の提供への恩返しというか、試し読みをした絵本で良かったものは、その場で購入するようにしている。『カキワリの劇場』は、カフェで読んで欲しくなった新刊の絵本だ。

地味でおとなしい感じの絵も気に入ったが、劇作家の作品らしい、演劇をモチーフにしたシュールなストーリーがとてもよかった。絵とストーリーとのバランスが悪いと絵本は好きになれない。

自分のことが嫌いで、自分を変えてみたいという地味な若者が、劇場らしき場所に紛れ込む。観客はだれもおらず、舞台の上で演じる役者もいなくて、ただ舞台装置のカキワリが並べ替えれるだけの芝居だ。6つの場面では、それぞれ自分を変わりたいと思った存在(すべてカキワリ)がグロテスクに自分を失ってしまうことが描かれており、若者は自分の考えが間違えだったことに気づいて、その劇場を逃げ出す。

しかし、自宅に戻ったはずの若者は、舞台の上で再現された自室のカキワリの一部になってしまう。若者の日常は、カキワリの劇場での芝居の7つ目の場面だったのだ。この時はじめて劇場が満席となって、観客たちが若者の日常を見物していることが示される。

ややわかりにくいところも残るストーリーだが、自分を変えたい、この退屈な世界を超えたい、と考えている主人公(これは僕たち一人一人でもある)が、実はそういうゲームを演じている芝居の舞台装置(カキワリ)にすぎなかったというオチは衝撃的だ。僕たちは自分の人生の主人公ではなく、単にどこかの世界の観客のためにそういう役を演じているにすぎないのだ。

こういう発想は、とりわけ演劇人にとってなじみのあるものだろう。舞台とは、もともとそういうものだからだ。そしてこの複雑な舞台のカラクリを、特別なルール説明なしに誰もが簡単に了解してしまい楽しむことができる。僕は、この事実の中に世界の成り立ちについての真理が隠されているような気がするのだが、どうだろうか。

 

 

 

 

ドキュメントを読む

今月の吉田さんとの読書会では、年末年始に読んだ4本のドキュメントの感想記事をもとにレジュメを作った。4本とも犯罪をめぐるドキュメントになってしまったのは僕の趣向のせいだが、教育現場を扱った『月明学校』や『山びこ学校』もドキュメントだし、『遠い「山びこ」』は戦後をめぐる壮大なドキュメントになっている。これからは、もう少し幅広くドキュメントをあさってみたい。

『宿命』〇では、70歳を過ぎてからも銃器による犯罪を繰り返す中村泰の人物像が、「戦中派」という荒ぶる時代に自己形成を遂げた世代の宿命を象徴しているように思えた。

『裁かれた命』◎では、粗暴で幼稚、内向的だった青年が、手ごたえのある他者に向けて「書く」ことを通じて、自己了解と他者理解を深めていくプロセスに感銘を受けた。それを受け止めるかつての度量の大きな大人たちの姿も魅力的だ。

『消された一家』〇は、生物として壊れ物である人間の愚かさを徹底的に見せつけてくれる。どのような美辞麗句もこの一家の犯罪の前では霞んでしまうだろう。ここでは「虚言を吐く」ことの恐ろしさが暴かれる。

三億円事件』✕では、組織に立ち向かう個人の技法について考えさせられた。どうやった犯人は警察と銀行という巨大組織の裏をかいたのか。そこには組織の内部に潜入可能なルートが必要だ。一方、この本は組織による執筆の弱点もさらけ出している。

書名のあとの記号は、僕の評定だ。しかし、その評定に関わらず、考える材料はどの本にも豊富にあった。

ドキュメントは現実に肉薄する。それゆえ、著者が必ずしも重視しない大量の細部を救い上げることになる。そこに僕が自分自身の現実の細部から得たものと類似の問題を発見できるのは当然のことかもしれない。

 

 

『世界のはじまり』 バッジュ・シャーム/ギータ―・ヴォルフ 2015

年齢を重ねて、知力や根気が衰えてくると、膨大な活字が詰まった本はしだいに役にたたないものになっていくだろう。だからこそ今のうちに読んで後悔がないようにしておきたいという気持ちがある。

一方で、自分が年老いた後でも変わらず楽しめる本を手元に残しておきたいという思いもあって、それが絵本を読書の軸にすえて少しづつ蔵書を増やしている理由でもある。数年前からこの作業を始めて本当に良かったとおもえるのは、これはという絵本に出会うためには、それなりに時間と手間がかかり、偶然という要素も大きいということに気づいたからだ。

マンロー・リーフに出会ったのは幼稚園の卒業記念として。みやざきひろかずの絵本をたまたま書店の書棚で見つけたのは、もう20年前のことだ。今では書店でも図書館でも彼らの絵本が目につく場所に置かれる機会は多くはない。

一昨年、近所のモールの本屋でクエンティン・ブレイクの『緑の船』に出会えたことなどは奇跡に近い気がする。その後どんな大きな書店にいっても、クエンティン・ブレイクの絵本の在庫はほとんど見当たらなかったから。

本書の『世界のはじまり』も、たまたま書店で手に取ったのだが、不思議な深い魅力に満ちた作品で、これから繰り返し読み続けるのはまちがいないという気がする。

中央インドのゴンド民族に伝わる創成神話に基づいて創作された絵本で、「水と魚」「大気とカラス」「泥とミミズ」「大地」「昼と夜」「季節」「植物と種」「動物と卵」「人間と芸術」「死と再生」をそれぞれテーマにした詩と絵が見開きで並べられている。このテーマの選択には土俗的な伝承を超えて、世界の普遍的な道行きを示す上での動かしがたさが感じられる。

それぞれの絵にはマジックが秘められていて、素朴だが細密な描法と鮮やかな色彩によって眩暈に巻き込まれるようだ。いくら眺めても見飽きないし、その謎を解きつくすこともできないだろう。

南インドの工房で、手すきの紙にシルクスクリーンで印刷され、一冊一冊手作業で製本されたというのも魅力的だ。

 

『遠い「山びこ」』 佐野眞一 1992

偶然だが、昨秋、著者の佐野眞一(1947-2022)の訃報に接している。「無着成恭と教え子たちの四十年」という副題が示すとおり、無着成恭の『山びこ学校』(1951)の周辺を辿るノンフィクションということで、2005年の新潮文庫版の古書を取り寄せた。

昨年末から読書の柱としてドキュメントを取り入れて読み進めているが、今回ほどドキュメントのもつ力を感じだことはなかった。『山びこ学校』はすぐれた作品だが、これだけを読むのと、このドキュメントを合わせて読むのとでは、その理解の深さがまったく異なってくる。この本が書かれてからさらに30年が経ち、『山びこ学校』の世界が一層遠くなっている今となっては、なおさらだ。

無着は巻末に教え子43名全員のプロフィールを短く書いているが、佐野はその全員のその後を調べ、存命者には会いにいっている。この学級全員の作品を載せるという、いかにも戦後民主主義的な編集も出版社側からの要請だったという。

『山びこ学校』では、子どもの作文を通じてしか知ることのできない無着成恭の教育の来歴を徹底的に明らかにしている。出版の10年後に、もっとも忠実な教え子だった佐藤藤三郎との間に論争があり、生活記録ばかりで普通の学力をつける教育が抜けていたことを激しく批判されたというエピソードは興味深い。後年無著も、従来の経験主義の立場から、独自の科学重視の教育へと方向転換したようだが、かつてのような評価を得ることはできなかった。

話は変わるが、現実と可能世界との違いについて、現実には「細部」があるが可能世界にはそれがないという哲学の議論が印象に残っている。これは現実とフィクションとの違いに置き換えてもいいだろう。

無着成恭という教師が誕生し『山びこ学校』という文集が編まれるにあたっては、戦中戦後の様々な出来事や人々とのかかわりが存在するし、『山びこ学校』がベストセラーとなり映画化されたのちには、無着と教え子たちはいっそう大きな関係に組み入れられて翻弄されることになる。このドキュメントは、そんな「細部」を可能な限りすくい上げているという印象がある。有名人の意外なエピソードもあれば、庶民の生活の小さな出来事への目配りもある。

このため戦中戦後の社会史や文化史の書物として読むことができるが、何より戦後の教育のありようを正面から追った記録として貴重だと思う。執筆当時の教育の現状を「荒廃」の一言で片づけているのはずさんすぎるが、無着が明星学園を退職する1983年頃までの教育の流れを知ることができる。

のちに『滝山コミューン一九七四』で政治学者の原武史が、自分史とからめて1970年代の教育の一潮流を描いて評判を取ったが、本書と比べるとのその視野はずいぶん狭いものだったように思える。

 

 

 

 

カラスな男

僕の職場は、駅前を出て、都市公園の散策路を歩いて通えるようになっている。いったんカラスの姿を見かけなくなった都市公園も、朝にはカラスが集まるようで、カラスの鳴き声が飛び交っている。

その鳴き声の中に、少し違和感のある声が交っているのに気づいた。

スーツ姿の勤め人が足早に歩く中に、汚れたジャージ姿であるく老人がいる。帽子からは白髪が飛び出していて、こころもち身体を傾けて歩いている。どうやら、彼が時々カラスの鳴きまねをしているようだ。これにはちょっと驚かされた。

僕はカラスの鳴きまねで、カンタロウとコミュニケーションを図るようになったが、実際に鳴きまねをしている人に会うのは初めてだ。しかも、鳴きまねの初心者が聞いても相当にうまい。ただ、何らかの狙いがあって鳴きまねをしているというよりも、カラスの大声に自然と反応してしまっているような気がする。

おそらく、もはや鳴きまねですらないのだろう。カラスが群れに反応して鳴くように、彼もたんに鳴いているのだ。すでにカラスになってしまった男が、はたして今でも人間の言葉を解するかどうか不明である。

 

多動な男

通勤電車は初めから座れることはめったにないが、たまに途中の駅で座れることもある。座席配置は一定ではなく、東京みたいな長いベンチの向かい合わせの車両もあれば、ボックスタイプの座席の車両もある。

今朝、ドアの脇の通路で、ボックス席の背に身体を持たせるように立っていたら、背中を向けて座っている若い乗客が、不意に背中をどしんと背もたれにたたきつけてきたので、その振動に驚いた。

何かにいらだっているような仕草だ。それですぐに気づいた。僕が背もたれに身を乗り出して無意識に身体を動かしているのが、彼の安眠を妨害していたのだろう。新幹線の座席もそうだけれども、意外と背後の乗客の動きは、ダイレクトに伝わってしまう。

僕は申し訳なく思って、それ以降、座席の背に触れないように立ち続けたので、電車を降りた後、すっかり身体が凝ってしまったのに気が付いた。

僕は落ち着きがなくて、ついつい身体を頻繁に動かしてしまうところがある。特に考え事をしている時はそうだ。夢中になって本を読んでいる時も、その傾向があるかもしれない。

もう20年くらい前になると思うが、早朝の相席で、隣の乗客(当時の僕よりずっと年配の男だった)から、いきなり叱責されたことがあった。僕が身体を動かすから、落ち着いて眠れないということだったと思う。

僕は器の小さな男だから、表面上は穏当に謝っても、内心はグラグラして、何らかの復讐を想像したりした。ここは、あなたの自室のベッドじゃないんだ。多少の迷惑は許容するのが大人だろう。あとをつけて職場を突き止めて上司に文句をいってやろうか。

20年たっても人間の出来ていない僕は、同じような復讐劇を夢想する。若いくせに座席を占領して、周囲の立っている人間のきもちがわからないのか。真上の網棚から本の詰まったリュックをおろすタイミングで、頭に直撃をくらわしてやろうか。

もちろん、小心者の僕にそんなことができるわけがない。

僕は、多動で、かつ器の小さな男だ。

 

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都市公園の小鳥たち

カンタロウのことばかりになっているが、真冬にも都市公園にはいろいろな鳥たちがやってくる。池や水路に我が物顔で居座っているのは、たくさんのマガモだ。夏には見かけたカルガモはすっかり居場所を奪われている。

マガモは意外に重量級でパワフルな鳥だから、水面での離着陸の姿は迫力があるし、けっこう激しく喧嘩をしたりもする。都市公園の流儀で、人間が近くを通りすぎるくらいでは平気な顔で地上に座り込んでいる。

ツグミの仲間では、あちこちにシロハラがたたずんだり、ぴょんぴょん跳ねたりしている。暗い林内の湿った地面はシロハラの好みだろうが、清掃が行き届いた都市公園では、落ち葉をひっくり返して虫を探す得意技を披露することができない。

大井川流域では、とても臆病ですぐに逃げてしまうシロハラが、都市公園では人をあまり恐れないのを不思議に思っていたが、観察すると、人間に近づいてくるそぶりさえ見せる。

おそらくエサの少ない冬の都市公園では、ハトやカモのために人間がふるまうエサがシロハラにとっても貴重な栄養源になっているのだろう。シロハラもハト化しているのだ。渡り鳥のシロハラは、冬に過ごす場所の特性に応じて態度を変えているわけで、その柔軟性には驚く。

シロハラのいるあたりでよく見かける小鳥はジョウビタキハクセキレイ。林の上方では、メジロシジュウカラが枝から枝へすばやく飛び移る姿を見ることもある。珍しいところでは、明るい芝生の上で尾を振るモズの雄姿も。

今日は、かわいいオレンジのヤマガラを見つけることができたし、小鳥にしてはやや大きなシルエットだと思ったら、橙と黒と白の複雑な模様のアトリだった。

 

 

 

久しぶりに新聞を開く

コメダコーヒーでは、一般紙とスポーツ紙が読めるから、モーニングを食べながら、ざっと目を通してみる。新聞は紙面があたかもイデオロギーに統一されているかのように批判を受けることがあるが、こうして久しぶりに読んで気づくのは、あまりに雑多な情報がきれいに紙面にはめ込まれていることだ。

情報の内容のふり幅がすごい。これだけのバラエティ豊かな記事を短時間で一望できるのは新聞の強みだろう。購読を止めて一年半たつが、取り逃がしてきた有益な情報は多かっただろうとちょっと心配な気持ちになる。職場や図書館で、あるていどまとめてでもフォローする習慣が必要かもしれない。

訃報欄に、戦後詩人の天沢退二郎の名前がある。一時代のスターだったが、僕は読む機会はなかった。昨年亡くなった安部さんが、「あまたいの詩は、二行ずつ読めばいいんだよ」と言っていたのが記憶に残っている。

西原春夫先生の訃報は、先日ネットの動画ではつらつと講演する姿を見たばかりだったので、驚いた。法学部の学生時代、解釈法学の無味乾燥な講義の中で、西原先生の人間味あふれる話は面白く、先生の似顔絵を描きこんだ著書『刑法総論』は、法学の専門書の中で唯一手元に残している本だ。のちに大学総長になり、80代になっても国際的な視野の活動を続けるなど、器の大きな学者だった。冥福を祈りたい。

柄谷行人が、某新聞社の賞を受賞したインタビュー記事がある。昨年出版された大著『交換様式論』が読みさしのままだったことを思い出す。長年のファンとして、放置しておくわけにはいかない。

全国紙二紙で、絵本作家の鈴木のりたけが大きく取り上げられている。職業紹介の絵本と、子どもの様々なピンチを扱った絵本がそれぞれ紹介されている。近年の絵本のマイブームの中で僕の発見した作家の一人だからうれしいし、新聞の諸事全般にわたる情報収集力の高さには舌を巻く。

 

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大寒波のカンタロウ

日本列島に大寒波が襲来するということで、朝から不穏な空模様になった。しんから冷え込んで、寒風が吹き荒れている。お昼前からは吹雪くようになり、突風に雪が舞っている。まるで北国だ。これでは電車が止まるかもしれないと、午後から仕事を切り上げることにした。

公園内の道を急いでいると、小高い林の中にカラスの姿が見える。初めてカンタロウに出会った場所だけれども、そこでは近ごろまったく見かけなくなっていた。念のために雪が薄く積もった斜面を上がって林に入ると、一羽逃げずに残ったのは、どうやらカンタロウのようだった。

カンタロウは、吹雪で揺れる枝にしっかりつかまって、枝の真下まで来た僕を見下ろしている。僕は雪をかぶりながら、ぎこちない博多弁で必死にカンタロウに呼びかける。「カンちゃん、カンちゃん、寒くないと? お腹すいてないと?」

カンタロウが普通にカアカアと鳴くので、それに合わせて何回か鳴きまねをしてみた。すると、カンタロウは、のどを小さく鳴らすようにして、か細くうがいのような声を出す。「ゴロゴロ、ゴロゴロ、ゴロゴロ」

これは明らかに真下の僕を意識したアピールだ。僕もうれしくなって、同じ回数のゴロゴロで復唱する。このやり取りを何回かしていると、近くの林から、急に力強いカラスの鳴き声があがった。カンタロウは急に目が覚めたかのように、力強い声で応じて、仲間のもとに飛び去って行った。これであの小さな鳴き声が仲間のためでなく、目の前の人間のためのものだったことがよけいはっきりしたように思う。

寒波の中でも、この調子ならカンタロウも大丈夫だろう。僕は少し安心して林を出て駅にむかった。