大井川通信

大井川あたりの事ども

ぬいぐるみが手放せない

休日の朝、コメダ珈琲で本を読んでいると、斜め前の席に、小太りの30代くらいの女性客が座った。透明なゴミ袋みたいなビニールに包んだ大きな手荷物をもっている。なんだろう。気になってみると、大きなぬいぐるみだった。

従姉妹のアサコは、幼児の頃、小さなトラのぬいぐるみが手放せなかった。ある若い演出家は、アフタートークの時もぬいぐるみを手に持ってくる。ライナスだっていつも毛布を。

だから、大きなぬいぐるみをもって、コヒー店でモーニングを注文する女性がいても、少しもおかしくはない。その人は、店を出ると、ぬいぐるみをかかえて駐車場の車に戻っていった。単なる荷物だったら、車に置いておくだろう。ビニールは雨に濡らさない工夫かもしれない。

僕は、この朝、読めもしない本を10冊ばかりカバンに詰め込んで、コメダ珈琲に来ていた。そのうち実際に開いたのは、2冊だけだ。他の人からすれば全く無駄で理解できない手荷物を身近において、安心したり満足したりしているという点では、ぬいぐるみの女性と僕は少しもかわらないだろう。

そんな密かな僕のエールなど、彼女は気づきもしなかったと思うけど。

 

 

『日本習合論』 内田樹 2020

久し振りに内田樹の本を読む。神仏習合という、大井川歩きにとってもど真ん中のテーマを扱っているからだ。相変わらず、面白い。内田樹だから面白いに決まっている、という感じもするが、そういう期待の中で本を書き続けるのはどんな気分だろう。

偶然、再来月の読書会の課題図書に決まったので、その時に詳細は検討するとして、ざっと読み通したところの感想をメモしてみる。

細部の豊富な話題には相変わらずの切れ味があったが、肝心の全体テーマについては、把握の弱さが感じられた。これはおそらく、年齢からする衰えなのだと思う。内田樹にも衰えがあるのかと思うと、少し安心してしまうところがある。老いは人間の自然過程だ。70歳を過ぎて、全盛期と同じレベルの批評(世界の全身的な把握)ができるはずはない。

日本社会や文化の在り方を、習合的、雑種的なものと見て、むしろそこにアドバンテージを読み込むという基調自体は、著者も言うように珍しいものではない。内田は、神仏習合に反するような「廃仏毀釈」が明治初期になぜいとも簡単に実行されたか、という問いを立てる。この新しい問いに対して、目覚ましい解釈を加えて「習合」概念を明確化するというのが、この本の狙いなのだろう。

しかし、この解釈に内田らしい深読みの冴えがないのだ。内田の答えはこうだ。日本人にとって土着と外来が習合しているのが「ふつう」で「当たり前」だが、「間歇的に、土着と外来を分離して、日本本来のものを単離せよという揺れ戻し」が起きる。この揺れ戻しが廃仏毀釈の本質だというわけだ。

内田のイメージする習合論は、話を簡単にしないことだと後書きで述べているが、廃仏毀釈のこの解釈は、話が簡単すぎないだろうか。「習合」対「純化」の二項対立で議論を組み立てた方が、わかりやすい社会的なメッセージにつながるのかもしれないが、事の真相からは離れてしまうのではないか。

廃仏毀釈の運動について、僕が奇妙に思うのは、それまでの信仰生活とは異質の思想が突然熱に浮かされたように流行したものの、それが徹底されることなく、神仏の分離という一定の成果を残しただけで、いつのまにか忘れ去られてしまったということの方だ。

つまり、これは「習合」の否定ではなく、「習合」に付け加わった新たな一要素と考えるべきではないのか。だから、それがたやすく受け入れられ、習合システムの中でそれなりの位置を占めると、われわれの無意識となって忘れ去られてしまったのだろう。

 

 

お札が増えるという事件

カーナビが完全にいかれてしまった。使いこなせてはいないが、少なくとも地図としては役立っていたし、オーディオの機能もあるから音楽が聴けなくなるのは、バンメのニューアルバムが出たこの時期にはことさら痛い。

古い車だけれども、まだ数年は乗るだろうから、カー用品店に出かけて新品を購入して取り付けてもらうことにする。パソコンや携帯、電気製品もそうだが、車関係の備品の購入の交渉事は、まったく苦手だ。子どもの頃は、工作好きで機械も嫌いではなかったのに、いつのまにかすっかり機械音痴になってしまった。

それでも下見で予備知識を頭に入れ、スムーズに購入手続きをすることができた。ベーシックな商品で、本体4万円で工賃が2万円ほど。ほっとして支払いをする。通帳から現金で10万円を下ろしてきたので(カードでもスマホ決済でもないアナログぶり)7万円を払ってお釣りをもらう。作業で二時間くらいかかるというので、外で昼食をとって携帯で呼び出してもらう。

思ったより短時間で作業が終わり、いざ車を受け取りに戻ると、店員が何か奥歯にものがはさまったようなものの言い方をする。よく聞くと正午の締めで、一万円札がレジで1枚多かったそうだ。関係のお客に当たっているそうだが、金額の大きい僕の可能性があるとのこと。

僕は、支払いをお財布ではなく、通帳にはさんだお札から行った。新札で数えにくかったのだが、残った一万円札3枚を間違いなく確認した記憶があるので、自信をもって自分ではないと言うことができた。ここまでは良かった。

カー用品店の駐車場を出るとき、ふとある事実を思い出してしまったのだ。家で通帳を開いたとき、そこに一万円札が1枚残っていたことを。(僕は通帳でまとまった現金を下ろした時、必要な分以外は通帳にはさんでおくのだ)

もしもともとお札が11枚あったなら、残りを3枚と確認したとしても、間違えて8枚払っていたことにある。あれほどきっぱり否定しておいて店に戻るのは、お金を自分のものにするために理由をでっち上げたようでかっこ悪い。しかし、もともと通帳に1枚お札があった記憶は鮮明だから、引き下がるわけにもいかなかった。

店員さんもしっかり話をきいてくれたが、結論からいうと、やはり僕ではない、と再度納得せざるをえなかった。僕が支払ったお札は銀行のキャッシュディスペンサーから引き出した新札で、通帳にはさんだときにゆるく二つ折りにしただけのものだ。残りの3枚もそのまま二つ折りにしてお財布に戻してある。

店員さんがレジの一万円札を確認すると、新札が7枚並んでいて、その前後は折った跡のある古いお札だったという。僕の説を裏付けるためには、同じ状態の新札が8枚並んでいないといけない。

とはいえ、本当のことをいうと、まだ完全に腑に落ちてはいなかった。通帳に残していた一枚が古いお札だった可能性があるからだ。また、僕のようなそこつな人間が何人もいるとは思えない。完全に損をした気分で暗くなってしまった。

では、今はどう思っているのか。さらに考え直して、僕の損ではないような気になっている。少なくともキャッシュディスペンサーに通すとき、一万円札は通帳から外すはずだし、それをお財布に収めていたかもしれない。10枚の新札を二つ折りで通帳にはさむときに、わざわざ旧札を1枚足すとは思えないし、もしそんなことをしていたら記憶に残って、合計11枚という意識が残るはずだ。レジの時にも、あとで店員から聞かれたときにも、10枚からの支払いに疑いをもってなかったのだ。

最後に、このちまちまとせこい「事件」の教訓。時代の流れと自分の老化を考慮して、やはり現金主義は卒業しないと。

 

 

 

 

 

トンネルから~♪ さようならのこと♪

「ぐるっとまわって、ビッグウェイ♪」のことを、妻に話してみたら、長男は別の作詞作曲もしていたと言って、こんな節を口ずさむ。

「トンネルから~♪  さようならのこと♪」

そうだった! 知人の子どものトンネルエピソードに触発されたなら、こちらをまっさきに思い出すべきだったのだ。人間の記憶など実にいい加減なものだと思う。ただ、いい加減だからこそ、思い出すときの喜びや驚きがあるのだろう。

長男もまた、トンネルが好きだったのだ。車でドライブに行って、トンネルを通り抜けたあと、きまって自作のこの歌を口ずさんでいた。僕の耳にも、このメロディーがこびりついているから、かなり長い期間歌っていたのだろう。

トンネルから抜け出して、トンネルにさようならをする、という意味だろうか。

長男は、そのほかにも、ドライブのことを「ダイヤイユ」、BMBのことを(あのエンブレムからの連想だろうか)「マルハメ」、家の自動車のことを「パパブッブー」、と呼んでいた。本人も覚えていないにちがいない幼児言葉は、親にはことのほか懐かしい。

 

 

ぐるっとまわって、ビッグウエイ♪

若い人と話していたら、幼い子どもが好きなモノについて面白い話を聞いた。彼は教師なのだけれども、生徒たちの興味が向かう方向が分からない、自分の子どもについてはいっそうわからない、ということだった。

彼の子どもは電車が好きなのだが、よくよく聞いてみると、トンネルが何より好きみたいなのである。それで、休みの日にどこに行きたいかと聞くと、トンネルに行きたいというから、その都度、新しいトンネルをめざしてドライブしているのだそうだ。ネットでも、トンネルの動画をひたすら見ているという。

この話にはオチがあって、実はトンネル動画の大半が心霊スポットの探訪ものであり、そのため子どもの様子を心配しているとのこと。

たしかにトンネルというのは、高速でいきなり山のお腹の中に入り込み、山の向う側に抜けるというとんでもない体験だ。子どもの眼には、それがどれだけ新鮮でスリリングな出来事に映っているのかは想像できない。

僕の長男は、幼児の頃、トンネルではないが大型スーパーで屋上の駐車場に上がるときのらせん状のスロープがお気に入りだった。めまいを起こすような体感と、そのあとのスーパーのおもちゃ屋さんでのわくわくの予感が一体となっていたのかもしれない。

そんなとき、ぐるっとまわってビッグウエイ(店名)♪、と口ずさんでいたことを、ふと思い出す。

  

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りぼんちゃんと九太郎

りぼんちゃんが家に来て一週間。二階の部屋にケージを置き、教えられたとおりに、一階に住む九太郎と、少しずつ顔合わせの機会をつくるようにした。

りぼんちゃんは生まれて半年間、猫族の中でもまれて育ってきているから、九太郎をみかけてもまったく動じない。遊んでくれるだろうくらいに思っている。

九太郎はというと、生後二か月で我が家に来て以来、一年八ヶ月猫の姿を見ることなく、人間たちと暮らしている。りぼんちゃんを一階に連れてくると怒りだすし、二階で対面させても、はー、とか、ふー、とか言って威嚇する。これではりぼんちゃんも怖がってしまう。

あわてることはないと思っても、不仲の家族がいるということは気になって、ストレスになるもの。(猫たちにとっては、もっとストレスだろうが)

それでも、おくびょうな九太郎も少しずつ慣れてきて、二階でケージの中にいるりぼんちゃんを少し離れたところから、落ち着いて観察できるようになった。

すると何を思ったかりぼんちゃんは、こちらにおしりを向けて、砂場でウンチを始める。これには、九太郎も思わず身を乗り出して、一メートルばかりのところまで近づいて、りぼんちゃんのおしりに見入っている。

これをきっかけに、九太郎が、りぼんちゃんに近づいて、はー、とか、ふー、とかでなく、クンクンと優しい声で鳴くようになった。二匹の距離が、少しは近づいた感じ。りぼんちゃんは肝が据わっているねと、家族で感心する。

 

 

『お役人さま!』 廣中克彦 1995

当時、宮本政於の『お役所の掟』などの霞が関の内情を暴露する本が話題になったために、それに続く企画として、同じ講談社から出版された本だったと記憶する。ただし、こちらは都庁のノンキャリヤという、かなり下っ端の役人たちの生態を、「出入り業者」という立場から描いたものだ。

役人たちは、責任をとらず、ミスを認めず、出入り業者を都合よく使って、時には虫けらのように罵倒する。自分たちの利益に関することには敏感で、内向きの体裁づくりに熱心なため、都民というよりマスコミばかりを気にする。うんざりするような生態だ。

何より驚いたのが、著者が仕事を始めた1960年代は、業者による賄賂が当たり前だったという指摘だ。少なくともその頃までは、日本も最近の中国と同じような賄賂社会だったのだ。また、著者が一貫して味わうのが、木っ端役人における「官尊民卑」の思想というべきもの。しかし、これらはさすがに、今ではそのまま生き残ってはいないだろう。

本書が書かれた90年代半ばには、官官接待や旅費の不正支出問題など、公務員の世界の慣行が批判を浴び、ようやくそれらの改善に手が付けられた。それだけでなく、日本社会の様々な仕組みがいっせいに制度疲労を見せ始めた時代だった。四半世紀たってみると、やはりあの時期が、戦後の歴史の(おそらくはオイルショックに続く)大きな屈曲点だったと思い当たる。

 

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こんな夢をみた(ある工場の倒産)

そこはリッカーミシンの立川工場だった。人の出入りに紛れて、中に入ってみる。天井が低く古い建物だ。ちょうど倒産の知らせがあった頃だろうか。父親の姿を探してみるが、もう退職したあとだろうと気づく。

受けつけの裏には、ひろい事務室みたいなのがあるが、事務員もみな作業着を着ている。なぜか僕も事務仕事を手伝わされる。ミシンの代金で回収できていない分を集計する表で、きれいな小さい字で数字が書き込まれている。そうか、まだパソコンが普及する前の時代なんだなと思う。倒産したのだから、こうした作業も必要なのだろう。

食堂に行ってみると、外国人らしき料理人が三人、雑談しながらまかないを食べている。すっかりやる気をなくして、次の仕事の話でもしているのだろう。

午後5時のサイレンが鳴る。足早に退勤する人たちといっしょに、僕も工場をでた。

 

 

翻訳詩を読む

読書会の課題図書で、ボードレールの『悪の華』(再版 1861)の安藤元雄訳を読む。僕はもともと翻訳された詩というのは、まがいもののような気がしてあまり読む気がおきなかった。

若き芥川が、「人生は一行のボードレールにも若かない」とつぶやいた頃は、出版後まだ半世紀だから、同時代の作品としての共感が可能だったのかもしれない。それからさらに一世紀が経った現在に、翻訳を通して読んでも、とてもその一行がリアルな人間の人生に値するとは思えなかった。

それでも何とか全部を読み通して、好きな詩を3篇選び出して会に参加した。会では、参加者が選んだ作品について、全員が順番で感想を言わなければならない。

その時、なんとか読みの手がかりにしたのが、僕になじみのある日本の近現代詩人たちだった。たとえば、ある作品は朔太郎のある種の詩によく似ている。あるいは、別の詩は、どこか村野四郎の詩を思わせるところがある。さらに別の詩は、丸山薫の発想に近い。中には、吉岡実の名作にイメージと言葉使いとで共通点のある詩さえある。

こんなふうに考えるのは、実際は本末転倒だろう。ボードレールこそ近代詩の開祖であり、日本の近代詩人こそその影響下にある。ただし詩を読むということは、ある詩をよいと思うことは、文学的な知識を学んだり、その系譜をたどったりすることで経験できることではない。

自分の手持ちの札を使って、自分に今ある感性の領野を広げることで、かろうじてたどり着くことができるようなやっつけ仕事みたいなものだろう。そう考えると、今まで遠い存在に思えた翻訳詩も、自分なりに読み込んでいくやり方がわかったような気がする。

 

 

家族人形のその後

我が家には、四人家族を見立てた四体の人形と、あとから家族になった猫の人形がある。一昨年、家に迷い込んで4カ月で亡くなってしまった八ちゃんと、そのあと家に来た九太郎の人形だ。

どれも筑豊の山の中に木工工房をもつ内野さんの作品である。新しく家族になったりぼんちゃんの人形を求めて、今年も内野さんのお正月恒例の作品展に出かけてみた。

新しい干支にちなんだ人形が多く飾られていて、猫は二体しかなかったが、幸いりぼんちゃんのイメージにあった人形があった。猿の人形が山の上の筋斗雲にのるという新作がある。猿は持っているので、筋斗雲以下の台座を購入し、おみくじでイノシシの立派な人形もあてることができた。

すると、リビングの棚の上の家族人形の配置はこんなふうになる。

四人家族の前には、八、九太郎、りぼんちゃんの三匹の猫が仲良くならぶ。背後には、大井の里山がそびえ、その上の筋斗雲から、我が家の守り神の猿田彦様が見守ってくれている。里山のふもとには、畑を荒らすイノシシの姿も。

本年も、人形の家族ともども、私たち家族をどうかよろしくお願いします。

 

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