大井川通信

大井川あたりの事ども

尻もちをつく/背中をうつ

高校生の時に、年賀はがきを配達するアルバイトをした。子どもの頃に遊んだ近所の路地にくまなく入り込んで配達するのが面白かった。何年かしてから、その時仕事を教えてくれた郵便局職員のお兄さんの太って変わり果てた姿を見てショックを受けたことをなぜかよく覚えている。

当時はまだ雪が多かったから、一面の銀世界の中で配達している時、あるアパートの鉄製の外階段で足を滑らせて、腰と背中をしたたか打って滑り落ちたことがあった。とても痛かったが、その後も仕事を続けられたのだから大事ではなかったのだろう。

その二階建てアパートはずいぶん長く残っていて、帰省時などその外階段を見るたびに、子どもの頃の「滑落」事故を思い出した。今でも残っているかもしれないが、実家が無くなってしまった今、そのあたりを歩くことはないのだ。

そんなことを思い出したのは、今回、雨をたっぷり含んだ里山で、笑ってしまうくらい何度も足をすべらせて、しりもちをついたからだ。そのうちの二回は、そのまま背中を打ってあおむけに倒れた。

大人になったから転んで倒れるなんてことはめったにない。まして尻もちをついて背中を打ったりすることはないから、とても懐かしい感覚がよみがえった。一瞬宙を浮くような心もとない感覚があって、次にお尻や背中に鈍い衝撃が生じる。

鋭い痛みではないから、妙に心地よくもある。斜面を滑りながら倒れるのだから、衝撃も弱まっているし、抱きとめる土や泥の感触もコンクリートと鉄でできた街よりずっと優しいのだろう。

全身泥だらけになって山を下りる。昔の人は、こんなふうに土や泥とつきあいながら生活していたのだと考えながら。

 

 

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ミロク様と山の神に初詣

ヒラトモ様には初詣をすませてあるので、大井の里山の中の別の神様に、お参りに行く。人の出入りがない場所なので、ヒラトモ様以上の難所である。先週末に雨が続いて、道がぬかるんでいるのも誤算だった。

まず、近頃気になっている秀円寺の裏山の石仏にお参りする。不動明王の背面に、文字が刻まれていることに気づく。うっすら元禄十二年(1699年)とも読めるが、だとしたらこの地区で一番古い年号となる。

ミロク様に向かうために、谷の共有林にそって進み、まずは突き当りの滝を見る。雨の後だから水量豊富だ。ミロク様の鎮座する尾根に上がるために、今まで登ったことのない奥の斜面を横断すると、そこに石室が少しだけ口を開けた円墳らしきものがあることに気づく。群衆墳のある地帯だから不思議ではない。

ただ亡くなった力丸ヒロシさんが、ミロク様の存在を教えてくれたときに、この谷の地中にあるかのような言い方(実際は尾根にあった)をしていたことを思い出す。もしかしたら古墳の石室のイメージとだぶっていたのかもしれない。

ミロク様の周囲は、昨年草を倒した効果がいくらかあって、見つかりやすくなっていた。お酒を備えてお祈りしてから、ホコラの周囲の草木を踏みつけて多少きれいにする。しかし、夏になったらどうしようもないだろう。

斜面の上り下りで、注意はしていたのだが、3回尻もちをつく。一度は背中を打った。濡れた泥に足をとられるのだ。痛いというより、衝撃が新鮮で懐かしくもある。大人になってから尻もちなどつかないから。

いったん里山の外に出てから、今度は大井炭鉱の坑口あとをめざす。奥の農園跡までは歩きやすいが、その先の谷の入り口には、イノシシのくくり罠注意の表示がある。もっとも谷の先は枯れた竹が折り重なって歩けたものではないはずだ。

少し戻った場所から尾根に上がって、歩きやすい尾根を少し登ってから、坑口のある谷に降りるというルートをとる。ここはミロク様以上の急傾斜で本当は行きたくはない。木も多くてイノシシが出てきたら怖い。大量の糞が放置された場所もある。イノシシ除けの笛を吹きながら、傾斜地ではしっかり木をつかんで、慎重に進む。しかし白状すると、ここでも二度転んでしまった。とにかく泥が滑って足を取られる。

ようやく坑口付近の谷に降りるが、昨年よりも荒れていて、コンクリートでふさいだ坑口には雨水がたまっていた。酒を備えて参拝するが、周囲を整備する余裕はない。なんとか無事に帰りつこうと思うばかりだ。

近場の里山の中だけだが、二時間歩いたことになる。本当はクロスミ様にも行きたかったが、5回も転んだためか体力も消耗し気力も尽きたので、出直すことにする。

 

 

 

 

 

『世界でいちばん透きとおった物語』 杉井光 2023

中学生のビブリオバトルでチャンプ本となった本で、その縁で読書会の課題図書になった。作品そのものを成立させるアイデアというかネタがすべての小説であるので、ネタバレが前提というところで感想を書く。

おおざっぱに言うと活字の配置が前頁同じ(正確に言うと見開きのページで線対称)になっていて、余白の部分は前頁を通じて余白であり、絶対に裏写りしないという構造になっている。

本というのは、紙に印刷した活字の集合体だ。ふつうはそこから意味とストーリーをくみ取っていくので、その集合体の形状はまるで問題にされない。この集合体にモノとしての特別な造形を与えるというアイデアが初めにあったのだと思う。

この小説がこういう造形になったことの理由を読者に最後に気づかさせて驚かせるために、逆算して物語が組み立てられたのだろう。各ページの活字の集合体を同じ形状に収めることは、手間暇がかかってもプロの作家ならできないことはないだろう。しかし、上記の条件を満たす説得力のある物語を作りだすことのほうは、絶望的なまでに難しい。だから、この本もそれに成功しているとはいいがたい。

作家に不倫相手の子どもがいる。事故の外傷で、紙面の裏写りに敏感で紙の本が苦手だという特性を持つ。だから、その子どものために絶対に裏写りのしない本を書こうと思い立ったが、そのアイデアに取りつかれたものの、完成する前に死んでしまう。

その幻の作品を、関係者の聞き取りを通じて探していくのがこの作品のメインのストーリーとなる。そんな特別な本づくりという迂遠な手段のメッセージに頼る必要があるのは、二人の関係が遠いからだ。しかし、遠いにもかかわらず、特別な愛情がなければならない。しかし、愛情があるなら、その表現方法がもっといろいろあったはずだろう。

この点で、残念ながら親である作家の行動には説得力がない。しかしそれ以上に唐突なのは、アイデアのままで死んでしまった作家の後を受けて、主人公が同じアイデアの小説(この作品)を完成させるということだ。

確かに作家の死後の物語が中心である本作品を、作家が残したという設定にはできない。この作品を書けるのは、最初から最後まで出ずっぱりの息子である主人公だけである。またこの強引なストーリーを導くための年上のヒロインは、不自然なほど聡明で主人公に献身的な存在とならざるをえない。

たしかに、本の意味の世界から活字というモノの世界を見出した瞬間の驚きはあった。しかし、活字の配置の形状に、前頁同じという以外の意味があるわけではないのはどうだろうか。(その形状自体が意味を帯びてこそのアイデアという気がする)

さらに違和感は、このタイトルにある。記号論の常識に従えば、記号は意味へと送り届ける際に自らは透明となる。だから単行本だろうと文庫本だろうと電子書籍であろうと(裏写りがあろうとなかろうと)、送り届けられる作品の意味世界は同一なのだ。

今回のトリックの驚きは、文庫本の活字が透明であることをやめて、一気に不透明になって、紙片に印刷された活字というモノとしての姿をさらすことによって与えられた。だから本当は、活字が「透き通ること」をやめる瞬間の物語、でなければならないのだ。

 

 

 

『魂を考える』 池田晶子 1999

ふと書棚のこの本が気になってカバンに入れて持ち出し、朝のファミレスで読んでみた。ページを開くのは20年ぶりくらいだろう。

池田晶子(1960-2006)は、僕と同世代の哲学系の書き手だ。といっても研究者ではなく、哲学の思考そのものを生きた人といっていい。1990年代後半の哲学ブーム(もはや覚えている人は少ないだろうが『ソフィーの世界』のベストセラーがきっかけになったもの)の頃、その安直な潮流を批判する発言をしていて、僕には共感できる書き手だった。

振り返ってみると、僕はその頃、哲学ブームに一役買った竹田青嗣の博多での読者グループに参加していて、彼の話を定期的に少人数で聞く機会があった。ただ竹田さんの発言はどこか的を外しているように思えて、素直には聞けなかった。(その十数年前は、現代思想ブームの立役者だった今村先生の近くに偶然いた。一素人読者としてはツキをもっていたのかもしれない)

池田晶子永井均の本は、竹田さんら哲学思想の解説者たちが、いかに「哲学する」こととかけ離れた場所にいるかを指摘して、僕の違和感の理由を腑に落ちるように説明してくれた。その時の恩がある。美人で、後に早逝した。死を少しも恐れないことを広言していたから、どんな風に死を迎えたのか気になっていた。

この本は、読みかけだったけれど、何か大切なことが書かれているのではないかという予感があって、いつか読み直したいと気になっていたものだ。

〈私〉という唯一無二の形式の問題やそれを〈魂〉ととらえることなど、思考の方向性は、哲学者の永井均と同じであるように思えた。ただ、この論理をていねいに根気強く説き続けることでは、永井均には及ばない感じがする。気短で性急なところがあり、論理に飛躍があってわかりにくいところも多いが、ずばっと急所をつく鋭さがある。

永井均にはない良さは、小林秀雄埴谷雄高を論じたり、ユングを評価したりするような幅の広さと良い意味のブレだ。厳密でないだけ、僕がいま考えていることとつながるような文章を見出すこともできる。いくつか引用してみよう。

「我々がそれぞれ別々の〈魂〉である限り、じつは我々は皆、互いに別々の世界に生きていると言っていい。たまたま共通する部分が多い同士で「この世界」すなわち「社会」を作っているだけであって、共通する部分が全くない〈魂〉がいても、少しもおかしくない。逆に、それぞれ別々の〈魂〉たちを全包括するような性質の〈魂〉がいるだろうことも、予想に難くない。もっともこれはかなり〈神〉の概念に近くなる」(101頁)

「『おそらく』、宇宙は、善の極と悪の極の二極からなる。歴史、すなわち魂の群れの移動は、善の極と悪の極の間を大きく振れ繰り返しながら、しかし、螺旋状に上昇して、最終的には善を目指す。善を善と知っていて、それを欲しないということはないからである」(123頁)

「生死とは驚くべき非論理なのである。非論理であるにもかかわらず、げんに、宇宙は、存在する。それなら、げんに存在する宇宙を、論理によらずに現象的に『感じとる』ことが卑小なる人類に開かれ得る唯一の自由ということになる」(139頁)

「犬とは、犬の服を着た魂である。そして、人間とは、人間の服を着た魂である」(166頁)

「生とか死とか思われているものは、そう思われているほど確かなものではじつはない。自分と宇宙というものも、そう思われているほど別のものではなく、あんがい同じようなものなのである」(199頁)

著者の略歴を見ていたら、彼女の忌日がちょうど今日2月23日であることに驚く。人の世には大小の偶然があふれている。

 

 

 

 

かわいい鳥/おもしろい鳥

近頃は、双眼鏡をもって散策することがなくなったばかりでなく、短眼鏡を失くしてしまって、往復の通勤時に鳥を見つけることもまれになってしまった。こんなことではいけないと思いつつ。

駅までの通勤路で、街なかにあるため池の名前は新池という。冬場で水はとても少なく浅い。その浅瀬に足をつけて、ぽちゃぽちゃとセキレイがエサを探して歩いている。

頭から背中までが真っ黒で、眉のあたりだけがキリっと白い。思わず、かわいいと思う。白黒のツートンカラーのセキレイは別にハクセキレイがいて、こちらの方が数が多いが、白黒が交じっているイメージでそこまできれいではない。セグロセキレイは、ちょうど小型のカササギのような気品がある。

駅に続く商店街の道を歩いていると、真横から大きな音で笛に吹かれたような気がして、思わず足をとめた。ただしホイッスルのようにけたたましい音でなく、もっとふくらみと変化のある美しい音色だ。

立ち止まってながめると、車道の向かいの木造家屋の瓦屋根に、イソヒヨドリの雄が止まっている。全身ブルーで胸だけが赤い。ただし青も赤も渋くくすんだ色なので、そこまできれいではない。

僕は身体の向きを変えてしばらく見入ってしまった。通学途中の高校生たちにも鳥の名前を教えてあげたいくらいだったが、気にするそぶりはまるでなかった。

また、仕事の帰り。週末の気楽さから、公園の反対側のトマトラーメンを食べて帰ろうと思い立つ。公園をでてすぐの路地の住宅の屋根に、ハシブトガラスが一羽止っている。二メートルくらいの至近距離だから、カラスは飛び立とうと身構えている。

僕が試しにカーカーと鳴きまねすると、カラスも鳴き返す。それに続いて別の鳴き方で、これならどうだ、という感じで挑発してくる。今まで聞いたこともない奇妙な鳴き声の連続だ。僕ができるだけそっくりに鳴きまねを続けると、明らかにカラスは動揺した様子だ。

去年出会ったカンタロウとまったく同じ反応だ。カンタロウだろうか、それともカンタロウに似た好奇心あふれる別のカラスだろうか。真っ黒なカラスを見つめても、確かめるすべはない。

 

 

 

『ハンチバック』 市川沙央 2023

読書会の課題図書だが、100頁にも満たない作品だから、ブックカフェで読み切ってしまい、購入しなかった。もともと、こうした芥川賞受賞の話題作を読むのは苦手で、読書会への参加にも後ろ向きになっていたところだった。

ところが、そういう悪意の先入観をもって読み進めたのだが、小説として悪いものではなかった。むしろ好感がもてる作品で、文庫化されたら購入してもいいかなと思えるくらいだった。

読書会の事前の設問は、理由を二つあげて(肯定的か否定的かの)評価をしなさいというもの。当日本は持参できないので、覚えているうちに回答のメモを作っておこう。

肯定的な評価の理由として、まず一つ目は、難病による障害者としての生活を、当事者としてリアルに描いているということ。具体的な制限や困難が、一つ一つしっかりとした手ごたえをもって、たんたんと描かれているのがいい。最近の小説では、生活感のないふんわりぼんやりした似たような登場人物ばかり読まされてきたような気がする。

二つ目として、障害者の主人公とすることで「社会問題化」されやすい論点や細部を多く含むことになっているが、そういう切り出し方ができにくいような、つまり白黒はっきりできないような深部を描いていること。彼女は単純な弱者ではなく、ネット上では自分なりの活動を行っており、リアルでも経済的には強者だといえる。

主人公は、ネットを駆使して、ネットのまとめ記事やエロ小説を執筆したり、SNSを自分の欲望のはけ口に使ったりしている。「清く正しく」暮らしてはいないが、それをことさら露悪的に描いているのではない。親の遺産によって建てられたグループホームのオーナーとして生活しており、経済力によって介助職員を自分の性処理に誘ったりする。もっとも男性職員の方も彼女を見下しており、上下関係はねじれ反転する。

重量のある紙の本への告発や、中絶にあこがれる障害者の性の問題が語られるが、あくまで当事者としての本人の欲望やグチというスタンスを崩していない。それが社会的な正義に昇格するような気配は消されている。(作品外では、著者の読書バリアフリーの主張が独り歩きしているようだが)

読書会の設問の二つ目は、「意味のよくわからなかった」部分をあげるというもの。小説の最後に、聖書らしきものの断章とはさんで、また別の小説らしきものの一部が追加されている。これが何かというものは問題となるだろう。

おそらく大学生で性風俗店につとめる女性を主人公とするフィクションで、主人公が執筆した小説の一部という意味合いだろう。この小説自体は、主人公自身が経験できない奔放な性や娼婦性へのあこがれのようなものがベースになっているのだろうがそれだけではない。

この断片の中で、女学生は、兄が障害者の女性を殺して刑務所に入っているという告白をするが、この殺された障害者には主人公の姿が重なる。主人公は、自分が誘った男性職員(これが原因で施設を去っている)に自分を殺させることで、架空の自己処罰を夢想しているのだ。このあたりの関係も、かつての障害者対健常者の図式で前者が「被差別正義」であるという思い込みでは片付かない関係のねじれが見て取れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな夢をみた(神社と甲虫)

ある僻地の学校を視察することになった。電車で目的の駅に行き、そこから歩いて数キロの場所だ。学校の敷地は細長く建物も貧相だったが、この地域の資力ではこれが精いっぱいだったのだろう。近隣のいくつかの集落が校区になっているが、そのうちの一つは性に関するタブーが強い地域だという。僕は興味をもったので、かえりがけ、そこまで歩いてみることにした。

駅とは反対側に歩くと、集落はすぐにあったが、その中心部に予想外の立派な神社が鎮座している。うっそうとした境内は歴史を感じさせるが、建物などの施設はきれいに整備されている。僕はキツネにつままれたような気持ちになって、神社の外に出る。街道沿いに広場があって、そこにいかにも昆虫のいそうな太いクヌギの老木があった。

近づくと、案の定、カブトムシがいる。見ている内に、カブト以外にもクワガタがぞろぞろ出てくる。巨大なミヤマクワガタもいる。いつのまにか子どもたちが樹木の周囲に群っているので、なんで冬に昆虫がいるのだろうと聞くと、今は冬じゃないよと笑う。

子どもたちが昆虫を採りつくして大丈夫だろうかと思うが、周囲は深い森だ。そこにいくらでも生息しているのだろうと考えて安心する。

 

※僕の夢に出てくる寺院や神社は、特に観光地にある名所というわけではないのに、いつもびっくりするくらい魅力的で、細部まで輝いている。夢から覚めたあとですら忘れがたいくらいに。子どもの頃からのあこがれが結晶しているからだろう。それは虫も同じ。今回は、大きなミヤマクワガタだった。ゲンゴロウが出てくることも多い。

 

 

 

 

姉弟の『武蔵野風土記』

多摩歩きのガイドブック『武蔵野風土記』を手に入れたことで、僕の子ども時代の蔵書再構築プロジェクトはほぼ完成した。本の汚れ等に敏感な僕の場合、ただ集めればいいというのではなくて、一定程度の「美品」であることも大切だ。こんなことができたのもネットでも古書流通の充実のおかげである。

蔵書は物置部屋に置いていたが、ふと思い立って、普段寝ている畳の部屋の書棚に並べてみることにした。棚が二つの小さな書棚(ボックス)に子ども時代の本全部がきれいに収まったので、毎日これを眺めているだけで幸せな気持ちになる。

幼児の頃の絵本、小学館の学習百科事典、岩波の「科学の学校」、少年少女向けの文学全集の何冊か、「天体望遠鏡の作り方」、旺文社文庫や学燈文庫。

ところで、タイトルを忘れていた『武蔵野風土記』を手に入れたのは、実家のある地元の古書店で現物に出会えたためだった。本体はある程度きれいだが、表紙があちこち破れている。補修テープで丁寧に直してみたもののやはりきれいな本が欲しい。それでネットで状態のよさそうな本を探して、もう一冊購入することになる。

前の本も補修済みなので処分するのは惜しい。それで実家近くに住む姉に送ることにした。すると、これはもともと父の本で、これを見てあちこち近所を家族で歩いたから、姉にも懐かしい本だったようだ。この本の懐かしい写真を見ながら、もう一度同じ名所旧跡を歩いてみたいという返事があった。

家族や姉弟というものは、同じ時間と生活を共有している。自分だけの記憶と思っても、意外と自分よりも詳しく憶えていたりするものだ。思いつきだけれども、送って良かったと思った。

 

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行橋詣で(2024年2月 再び)

先週は井手先生がご不在だったので、今週またお伺いする。一つには、本日が先生の誕生日なのでお祝いをすること。新年に提出した金光教レポートの一頁目の日付がたまたま昨年の今日だったことに先生が少し驚かれて、それでたまたま誕生日を知っていたのだ。宗像の新酒とともに、お祝いのロールケーキをお持ちする。

それと今月のうちに話をお聞きしたいこともあった。高橋一郎の「退一歩」論を動画でお聞きしたばかりの大矢先生の来訪日に偶然お訪ねしたために、それがきっかけで電話でお話しすることができたこと。これをどう考えるべきか。

井手先生は、大矢先生が所長を務める金光教国際センターが発行した資料(西平直氏を招いての座談の記録)や、大矢先生の講演録などを渡してくださる。

大矢先生は、明治以来3代にわたる壮大なおかげ話を自ら体験しており、神様との関係もストレートで「肉感的」だ。言葉はとてもやわらかいが、より教祖の時代に近い信仰スタイルといってよく、容易に理解できないところがある。家に戻ってから、近頃手に取っていなかった「教典」の教祖の言葉と再び向き合うようになった。そうしなければ、太刀打ちできないような気がする。

近頃の発見である鈴木大拙の『日本的霊性』の話をする。大地こそが大切であり、農民から真の宗教が生まれるという部分などは、先生の前で朗読した。大拙は、念仏や禅を大きな達成としてみるのだが、素直に読めば、金光教など民衆宗教の称揚の書ではないか。井手先生にもうなずいていただける。

 

家族優先の原則

玄関の脇に、大きなキャリーバックが置いてある。明日、妻が天神のお店にスペースを借りて小物を出品するからその準備だろう。思ったより大きなバックなので、持ち上げてみるとかなり重い。これはまずい、と思った。

かなり前から明日の出品は自分で電車にのっていくからと言われていたから、僕は一日自分の予定を入れてある。午後一番に行橋に井手先生を訪ねて、その帰り道、折尾で詩歌を読む読書会がある。課題の『小熊秀雄詩集』はなかなか面白かったし、自分の得意の近代詩のジャンルだからぜひ参加したい。井手先生には訪問を予告しているし、何といっても先生の誕生日をサプライズで祝うという目的もある。

この予定のとおりだと、サポートできるのは朝に最寄り駅まで車で送ることだけだが、博多駅の乗り換えや地下鉄の乗り降りなど、この荷物を抱えて移動するのは妻には(それこそ)荷が重いだろう。妻は手術の後遺症で、あまり右手に負担をかけられない。

朝の一人ファミレスで、明日の二人の日程の調整について、あれこれシュミレーションを繰り返す。一番頭が働く環境なのだ。

そこで名案が浮かぶ。詩歌の読書会の参加はあきらめよう。自分にとっては確実にプラスになる会だが、家族の事情が優先する。まず、朝、妻を荷物と共に、午前9時までに天神まで送る。博多の一日料金の安い駐車場に車を止めて、JRで行橋に向かう。時間に余裕があるから、特急を使う必要もない。先生のところに2時間お邪魔しても、帰りは特急で午後5時に博多に戻れるだろう。店の終わった妻を迎えにいくことができる。

車の運転も妻の送り迎えのための最小限ですむし、通勤定期や駐車場の一日料金を使えるからコストパフォーマンスもばっちりだ。往復のJRでたっぷり本を読むこともできる。

結局、当日はこの作戦のとおりにすすんだ。妻からは何度も感謝の言葉がでて、年末に地の底まで落ちた夫婦関係がなんとか持ち直したことを実感する。