大井川通信

大井川あたりの事ども

早稲田で対話する(2026年7月)

一年ぶりに大村龍太郎さんに会う。穴八幡でお参りした後、下の交差点で信号待ちしていると、さっそうと自転車に乗る大村さんと偶然顔を合わせる。大村さんも早稲田の人になったのだと実感する。

いったん別れて、約束の時間に大隈庭園の入り口のカフェへ。まず、僕の大村さんへの宿題だった金光教研究の成果をまとめたバインダーを渡す。僕の金光教論のおおよそについて賛同してもらえたように思う。それは一宗派の問題ではなくて、日本文化のあり様や教育の根幹にかかわるような問題だ。

大村さんからは生成AIと教育とのかかわり等についての話があって大いに刺激をうけた。ただ、この問題では僕は平凡な反応しかできない。それで、僕は、大村さんが教育学者としての道を歩みだすとき、僕からの挑戦として提起した問題を蒸し返してみた。僕の実体験から少し考えが進んだからだ。

教育学にしろ教育行政にしろ、人間の上り坂の時期を対象にしているだけではないのか。その時期は放っておいても成長できるだろう。上り坂以降の横ばいとだらだらとした長い下り坂の時期も踏まえた学びの理論(これは「生涯学習」などというものではない)が必要なのではないか。

僕自身、今急傾斜の下り坂の真っただ中であるにもかかわらず、個人の学びとしてはおそらく今までで最高の成果をあげている。これができているのは、上り坂と横ばいの時期に頑張り過ぎずに手を抜いて、種まきだけをしつつ性急に答えを求めなかったからであるような気がする。

生涯にわたってパフォーマンスを維持するためには、こども期に「理想的な」学習環境を与えるのはマイナスであるかもしれない。トップレベルの学びの成果を生み出すのは、利己的・競争的な主体性ではなく、日本人の底流にある「万物(人、生き物、モノ)の幸せと立ち行きを願う無私の心」(金光教に純粋に保存されているような)ではないか、という話にもなった。

僕は、学生時代、早稲田で中途半端な生活と貧弱な学びしかできなかった。それを後悔する気持ちが強かったが、今こうして学び直しができるなら、それでよかったような気持ちになる。こう思えたのも大村さんのおかげだ。

 

4時間半たっぷり話して、カフェの前で別れる。大村さんを見送った後に振り返ると、カフェの低い屋根に大柄な鳥が飛び移ってきた。オナガだ。オナガは、11年前に大村さんが東京の大学院に自費で進学した時、僕が最初のメールでクイズに出した鳥だ。九州にいなくて、関東にいるカササギに似たカラスの仲間はなんでしょう?

大村さんは答えを見つけてくれたのだろうか。

 

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秩父を訪ねる

帰省の度に、レンタカーを借りて、埼玉県入間市にある父母の墓を参る。以前はJRを乗り継いでいたが、姉弟も歳を重ねたので、近隣のドライブを兼ねてお参りするのが習慣になった。カメラが趣味の姉には、寄りたい撮影スポットもある。

お墓は父母が生前に準備したもので、なだらかな丘陵の斜面にあって、正面に富士山の姿を望める霊園にある。東京都の青梅市との境界も間近で、JRの駅からも歩ける距離にある。近辺の地形を調べたときに、多摩地区に広がる扇状地の起点(扇頂)になる土地であることを知って、多摩育ちの自分にはいっそう愛着がわくようになった。

今日は気分転換に少し遠出をしようと思いついて、秩父に出かけることにした。関東山地にある秩父は遠いイメージがあったが、父母のお墓からなら1時間で行く。えんえんと山あいの国道をたどって、秩父盆地にたどり着いた。

石灰岩が無残に削り取られた武甲山の姿は、九州筑豊の香春岳を彷彿とさせる。姉が両親と来たときに見たという秩父神社と高台の音楽寺に参拝する。父親は「秩父困民党」が好きで、困民党が決起して町に駆け下りたという逸話のある音楽寺には感激していたそうだ。

父親は、独特のセンスで事物を気に入って、夢中になれる人だった。僕も父親の気質を受け継いでいるのだろうと思う。明治維新の歴史が好きで、「秩父困民党」のこともよく調べていたし、戊辰戦争にも関心があって、熊本での激戦の地「田原坂」に連れていった時にはとても喜んでいた。

特に城好きではなかったが、純粋に建築としての魅力からか姫路城が好きだった。道元への尊敬の念から永平寺にもあこがれをもっていた。晩年に二か所とも訪問できたのは親孝行の姉のおかげだった。

文学者では、永井荷風、中島敦、萩原朔太郎、中原中也などが好きだった。日本刀の模擬刀や埴輪などに夢中になったこともある。

父親の趣味については、たいていわかっているつもりだったが、姉と車中で話して意外なことを知った。父親が晩年、小林一茶に傾倒していたというのだ。長野の一茶の家に訪問したときには、柱に手を当てて感激していたという。江戸の俳人では、芭蕉や蕪村の方が好きだったはずだし、良寛好きのイメージからも、俗臭の強い一茶のことはむしろ嫌っていると思っていたのだ。

晩年のどこかで、考えを変える場面があったのだろうか。僕も何年か前、読書会で一茶の句集を読んで、面白いと思いなおしたことがあった。

天気予報どおり、午後には天候が大きく崩れ、大雨のなかハンドルを握りしめて山道を帰る。

 

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日本語教育学というジャンル

日本語教育学もまた、広い意味で教育学の一種だろう。教育学については、実際に学んだことはないにしろ、長く教育行政の仕事をしてきたから、「門前の小僧習わぬ経を読む」の要領で多少の経験値はある。大村さんとの議論の蓄積もある。

半年間の特訓を終了して、日本語教育学もまた、日本語教育の弊害を引き継いでいるような印象を受けた。一言でいえば、理論と現場との乖離である。

日本語初級の講義は、定評ある文型積み上げ方式の教科書とそれを解説するビデオ教材の視聴から始まった。文型・文法には学としての知識の積み重ねがあり、それについて詳細な説明が専門用語によって行われる。これは主にビデオ教材。

しかし、一方で、ビデオ内の日本語教師も、教室の日本語教師も心を砕いて説明するのは、いかに教科書を、現場の実際に使われている場面に橋渡しするかの「導入」や「応用問題」の設定のスキルについてなのだ。

また、実際の模擬授業が始まると、既習の日本語で日本語を教えるという直接法の制限のもと、どうやって学習者にそのおおよその意味を伝えるか、というスキルが問われることになる。説明はふつうメタレベルに立って行われるが、そのメタレベルに立つための語彙(文法用語)が使えないのだ。

そうなると先輩教師の教え方の見様見真似をするほかないが、本来、この現場のスキルこそが、教育学の対象とされるべきではないのか。体系化されて効率的に伝達されるように研究すべきではないのか。

本家の教育学の方でも、現場で直接役に立たない知識や理論ばかりが発信されるため、実際に現場に役立つ実践知については、先輩教師などからの職場での伝達に任される。あるいは手ごろな教育書や教育サークルの発信がそれを補うが、教育学からはそういうノウハウは安易なハウツーものとして軽蔑されるのだ。

理論として伝えられる理屈はあるのだが、それは知識のレベルにとどまっている。一方、現場で本当に必要な実践知は、経験者(先輩教師)による秘術として伝達されるか、経験者の無意識のふるまいから学ぶしかない。

以上、まだ勉強を始めたばかりの日本語教師の卵による印象論でしかないのだが、この印象がどう覆るのか、あるいは覆ることがないのか、これからが楽しみだ。

 

 

 

 

動作の対象を表す「を」

半年間のコースが一段落して、自分でも意外だったのは日本語教育の勉強自体をあまり楽しめなかったことだ。日本語についての啓蒙書を読むのは好きなほうだし、言語学等の知識も多少はあるから、もっと楽しめると思ったのだ。

少人数とはいえ、集団で学校のカリキュラムに沿って授業がすすみ、とても重要な知識もそこまで大切でない知識も、同じように一律に並べられて消化しないといけないという環境が、僕のような気まぐれな学習者の意欲を削いでしまう気がする。

だから、教師の何気ない一言や説明が、自分の中にためこんだ疑問を氷解させるなんて場面には大いに興奮して、発見の喜びに感涙するのだが、こんな不規則なペースをクラスに押し付けるわけにはいかないだろう。

日本語教育の学習が大変なのは、自分が無意識に身に着けていることを、自分の外に取り出して意識化するだけでなく、それを学習者のレベルにあわせて教えるという技術を身につける必要があるせいだ。せっかく身体化できていることを、もう一度煩瑣な知識に戻すというのは想像以上に面倒くさい。

その煩瑣な知識を、自分自身の手でもう一度ルール化して原理的に理解することまでして、初めて学びがいのある、考えがいのあることになるのだろう。

たとえばこんなことがあった。教科書では、名詞文、動詞文、形容詞文というように文型を習っていく。動詞文は、まず目的地をしめす「へ」、つぎに動作の対象を表す「を」の用例をまとめて習う。このあとにもいろいろな助詞の用法を習う。

もちろん日本人だから、出て来る用例は理解できる。しかし、なぜこの順番で教える必要があるのかはわからない。ある時、教師が、外国語には動作の対象を表す助詞がないという豆知識をふと口にする。

なるほど、そうか。と僕はひらめく。他動詞と目的語の関係はとても密接だ。英語でもネパール語での他動詞と目的語はダイレクトに結びつく。にもかかわらず、日本語では二つの間に「を」という助詞が割り込むのだ。

だから外国人の学習者は間違いやすい。それでまず「目的語+を+他動詞」の文型をまとめて口慣らしさせるのだ。

おそらく、多くの単元の並べ方や教え方の背景に、日本語と外国語との比較に基づく合理的な理由や説明が控えているのだろう。機械的に並べられた知識の背後の真のルールというか原理が存在しているはずで、それを発見するのはおそらく楽しい作業になるだろう。

そこに行くための、今は生みの苦しみの渦中にいると考えることにしよう。

 

 

 

 

専門学校での特訓終了

日本語教師のための専門学校の半年のコースがとりあえず終了した。あとは、10月11月の実践研修(教育実習)を残すばかりだ。もっともこちらも同じ学校のクラスで受けるわけだから、約2か月半のお休みをはさんでコースは続くとも考えられる。

ただし、ここで大きなクラス替えがある。もともと女性5名、男性2名の少人数クラスだったが、女性5名は、新しい2名と今月から実践研修を受けることになり、男性2名は追加のメンバーと10月からの実践研修を受けることになった。

おそらく、昨年の日本語教員試験の合格者が増えたために、試験コースで資格をとるために必須の実践研修の申込者が増えたことが原因だろうと思う。僕も試験コースの合格者だから、本当は実践研修だけを受ければよかったのだが、教える力に自信がなかったので、一般的な養成コースに入って鍛えてもらったのだ。

これは本当に良かった。ベテランの先生たちから、代表的な教材をつかって様々なことを教えられた。模擬授業は準備も含めて本当に大変だった。パワポを自分で作ったのも初めてだ。とにかく日本語を教えることが大変なことを痛感できたことがよかったし、半世紀ぶりのクラスメイトと長期間授業を受けて、自分が何が苦手で、何が得意かを把握できたこともよかった。

来春から教壇に立つとして、まだ9か月近い準備期間がある。この間何をすべきかを、知識ではなく、体感として叩き込まれたのは幸いだったと思う。

想定外だったのは、僕は日本語の学習をもう少し楽しめて、このブログでもその関連の新しい知識を記事にできるかと思っていたのだが、そうはならなかった。学校も仕事もそうだったが、僕は決められた作業を正確にこなすことが苦手だった。自分のペースに持ち込まないと楽しめない。

養成コースだから、盛沢山の内容を一定のペースでこなさないといけないし、つねに評価が付きまとっている。自分の弱点がよくわかったが、来春からはそういう環境で仕事をすることの覚悟ができた。

コースの中休みができて、自分のペースで勉強できるようになったのだから、今までのリベンジで、目いっぱい日本語学習を楽しみたいと思う。10月からの実践研修でその成果を試したい。

久しぶりの学校体験も楽しかった。クラスメイトはコースの終了後、試験勉強をして合格を狙うのは来年という人が多い。しかし、熱心な勉強ぶりには頭が下がり、僕が試験勉強を終了していることなどまったくアドバンテージに感じられなかった。

多士済々のクラスメイトとのつながりは、日本語教育に関わる上で今後の財産になると思う。

 

 

 

『ニュータウンのあの頃とこれから 日の里団地1971-2021』 山田雄三監修 2022

日の里団地は、僕のフィールド内にある大きな団地だ。

JR東郷駅の東側に放射線状に開発されたニュータウンで、戸建て住宅のエリアと公団住宅のエリアとが広がっている。この風景が、僕の地元東京国立市に似ているところがあって、無意識にひき寄せられてこの近隣に転居してきたような気がする。

国立の場合は、昭和の初めに大学町としての開発が先行して、実際に多くの人の居住が始まったのは戦後だったようだ。僕の両親も1950年代中ごろに入居している。富士見台団地という公団住宅の建設されたのは、1960年代の半ばだったので、日の里団地よりも少し早かったことになる。

僕は実家に帰省するたびに、団地の変化を感じてきたが、近年は建て替えが進み大きく変貌を遂げた印象がある。日の里団地も一部の建て替えとともに団地の再生を目指す新しい試みが行われているようだ。

この書籍は、住民らが専門家の協力をえて立ち上げた「ひのさと記憶プロジェクト実行委員会」の手になるものだ。「記憶プロジェクト」とは、街の記憶を収集・保存する活動のことで、住民への聞き取りによって町の歴史を振り返るだけではなく、現役で活動中の人々や団体等の発言も加えて、現在と未来の街を見据えるものになっている。

僕はこのプロジェクトが始まる直前の「郊外暮らしの再生塾」(2017)に半年間参加して、多くのことを学ばせてもらった。そしてコロナ禍をはさんで、本の活動を通じて再び日の里の人たちとかかわるようになった。

具体的には駅前のコミュニティスペースでの隔月の読書会や、地元の中学校での社会人と生徒との読書会(年3回)である。

今回は、この本を課題本(「商店の人々」の章)として、中学生と本づくりにかかわった大人たちとの読書会を実施した。「行きたいお店」「好きな場所」「やってみたいお店」をお題にした読書会は、日の里団地の大きな地図を使って大いに盛況だったが、僕には、その後の山田先生を始めとするプロジェクトのメンバーとの飲み会の印象がとくに強かった。こんなに真面目に楽しく議論できる飲み会は稀有だと思えたから。やはり街(地域、地元、生活、歴史、人々等)にかかわることは、人の居住まいを正させる力があるのだろうか。

 

 

『骨董』ラフカディオ・ハーン 1902

近年、ドラマをきっかけにラフカディオ・ハーンのブームがあったために、1940年出版の岩波文庫が昨年改版されて、活字も大きく感じのよい本になった。それで衝動買いしてしまったのだが、すぐに後悔した。ハーンの主要な作品は、講談社学術文庫に入っているから、そちらで読めばよかった、と。

ところが、この岩波文庫は、活字が大きても薄くてハンディという良さがある。読みだすと、どの作品も面白いのにあらためて驚いた。怪談風の小説がいいのはもちろん、どんな短いエッセイでも中身がとても濃い。

何より驚いたのは「ある女の日記」だ。40頁あるから、この作品集の中では一番長い作品だ。しかも、ハーンが偶然から手にした女性の手記がベースだから、怪談でも日本論でもないので扱いに困る作品なのだろう。講談社のアンソロジーにも漏れているのだ。

明治の女性の日記風の手記だ。30歳近くなってようやく結婚できた経緯と、生まれた子を次々と亡くしていく不幸と、貧しいながら結婚生活の楽しみとが、誰に読まれることのない日記のなかで切々と語られていく。体調を崩した記述のあと、この女性は亡くなったそうだ。ハーンは次のように解説する。

「ただこのなかには、ちょうどあの青い空や日光のように、日本の生活ならどこへ行っても見られる、そのありふれた何物かが、そこにあらわされているからなのである。柔順と、おのれの務めをりっぱに果たすこととによって、愛情をえようとする、健気なこの婦人の覚悟、どんな些細な深切にも、かならずもつ感謝の念、小児のような信仰心、この上もない無私無欲の念、この世の苦難はすべて前世に犯したあやまちの報いであると考えるその仏教的諦念、また、心の傷つき破れたときにも歌を作ろうとするその心の励み―すべてこれらは心打たれる。いや、心打たれる以上のことどもである。しかし、これは異例なことではない。ここにあらわれているあらゆる特徴は、一つの典型―庶民社会の婦人の特性を代表した典型にほかならない。」(111-112頁)

僕が驚いたのは、彼女が書くこと、なにより歌をつくることで、自分の感情の波乱に対処していることだ。もちろん歌はささやかな喜びを味わうためでもあり、親族が集まったときの娯楽としても皆で詠まれている。

僕は以前、自分の死を前にしてヨーロッパ由来の学問で理論武装しようとして空転する学者の姿に対して、素人なりに歌を詠むことで死に向き合おうとする態度の方がはるかに「知的」であり、その場に必要な知恵に溢れていることを主張して、若い学者と面と向かって論争をしたことがある。その学者からは、それはあなたが歌が好きなだけだと一蹴されてしまい、ずっと心にひっかかっていた。

「ある女の日記」を読んで、僕の漠然と想像で語ったことが、現実に届いていたことを知れてうれしかった。歌という形式の中に、生活の困難に立ち向かう我々庶民の経験と知恵が引き継がれているのだ。しかし、そのことをここまで明確に教えてくれる資料というものはめったにないだろう。

『骨董』の文庫本を手にしなければ、おそらく出会うことのなかった作品だろう。ハーン夫妻は執筆後この女性のお墓参りをしたそうだ。僕も彼女の冥福を祈りたい。

 

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大井川歩きで気合を入れなおす

正月以来、大井川の周辺を歩いていない。この半年間の学校とその課題は、僕には想像以上の負担になっていた。体調も崩したし、仕事もある。勉強会も地域サークルの仕事も手を抜くわけにはいかない。

早朝涼しいうちに、住宅街を降りて、大井の旧集落へ。秀円寺の裏山で、樹液の流れる木を見つけるが、昆虫はいない。荒れ放題かと思った六地蔵の周辺の草刈りがすんでいる。僕が以前積み上げた頭の落ちた石仏もそのままの姿で佇んでいる。

村の鎮守の和歌神社の様子に驚いた。数年前に村人によって境内と裏山の神木が切り倒されて、工事現場みたいな殺伐とした景色になっていた。しかし自然の修復力はすごい。枯れ木に思われた樹々にも緑が広がり、村の鎮守としての威厳を回復していた。

ただし、注意深く探しても、神木が健在だったころのように境内に大きなカブトムシが落ちていることはなかった。

初詣用に買っておいた小さなお神酒を、和歌神社の社殿に供え、社殿脇の小さなホコラの一つ(国玉神社)にもお供えする。村人の慣例に従って、その場で振り向いて山上のヒラトモ様を遥拝する。

和歌神社を出て少し歩くと、突き当りの大きな木造の玄関で、年配の男性が休んでいる。そこはかつて吉田シゲミさんから聞き取りをした場所だ。大正生まれのシゲミさんからは、戦時中の五社参りの体験を教えてもらった。

シゲミさんはずいぶん前に亡くなったから、おそらく息子さんだろう。挨拶するとはたしてそうで、昭和25年生れだそうだ。念のために聞いたが、やはりヒラトモ様もクロスミ様もご存じでない。炭鉱があったということはご存じだった。

この家から、田んぼの真ん中を突っ切って、「大井戸」の脇を通った先には、川を渡って種つむぎ村がある。久しぶりにアトリエ(旧納屋)の原田さんを訪ねると、相変わらず元気そうだ。シゲミさんの息子さんのことを言うと、俺も25年生れだよ、と。

原田さんはこの間に立派な画集を作っていた。原田さんを小特集した美術雑誌からの出版物になる。年内にはもう一冊別の出版社から出すとのこと。営業の人が話しが上手で、と原田さん。持ち出しのお金がかかるようで、あまり自慢顔ではない。

ただ、15年くらい原田さんを間近で見てきた者としては、やはり形あるものを残せたことに関して素直に喜びたい。定価の代金を払って、購入する。才能と志と特別な知性を持ちながら、誰からも評価されずに消えていく一生も潔くていいが、70代になって粘りに粘り、足搔きに足掻いて、多数の注目を引き寄せた姿も立派だと思う。

しかも一度も「詩を食べる店」という奇妙なコンセプトの看板を下ろしていない。

種つむぎ村で、原田さんのイベントがあるそうでチラシをもらう。いかがわしいセラピストみたいな人との合同企画で、チラシ上の原田さんも調子を合わせたためか、十分にいかがわしい。さすがにこれは参加できない。しかし、こうした俗なる部分も、また原田さんだ。

じわじわ暑くなってきた日差しを避けながら、坂道をのぼって住宅街に戻る。

 

 

 

猛暑の到来

七夕の翌日に晴れ上がって、通勤途中の都市公園で朝からクマゼミの鳴き声が響いていた。職場でニュースを見ると、北部九州で梅雨明けということだった。クマゼミは例年梅雨明けの頃鳴きはじめるが、今年はそれをピタリと当てた感じだ。

(ちなみに、自宅周辺のセミの鳴き始めは10日であり、玄関前のアスファルトで最初のセミの成仏を発見したのは14日だった。これはちょっと早い。早めに羽化した個体だろうか)

先週までは、雨または曇りがちで、晴れても日傘がほしくなるほどではなかった。30℃を超える日はほとんどなかったが、昔の6月はこんなだったと思う。

それが梅雨明けとともに、35℃以上の猛暑が連日続いている。日傘が手放せなくなった。梅雨から夏の到来が、こんなにはっきりとわかりやすいのは、記憶にないくらいだ。

もう7月の中旬だから、本当の猛暑に耐えるのは、一か月ばかりでいいということになる。そのくらいなら耐えられる。8月の下旬には、朝晩、秋の兆しを感じさせるような瞬間がきっとあるから。

とはいえ、近頃は9月になっても8月と変わらず暑く、真夏と変わらない残暑が続くケースが多い。夏が一か月ちょっとで済むというような都合のいい話は起きないだろう。

ただし、今回の季節の変化の鮮やかさを、何らかの吉兆と受け止めて、7月以降の態勢を整えたいと思う。

魔法でドレスが現れる話

豊後高田市の「昭和の町」(古い商店街をアトラクションにした観光施設)を訪ねた時、倉庫内の一室に昔の小学校の教室を再現している場所があって、そこの書棚に「少年少女世界の名作文学」(1964- 全50巻)が並んでいた。クリーム入りの箱はなく痛みが目立っているが、僕には懐かしいシリーズだ。

よく見かけるのは、同じ小学館でも少し新しい『カラー版名作全集少年少女世界の文学』で、こちらは赤い箱入りの全30巻である。基本的には同じ作りの本なのだが、カラーページを増やし、よりコンパクトなシリーズに編集しなおしたものだろう。勉強会仲間の吉田さんが小学校低学年で読破をしたのはこちらのシリーズだが、僕には馴染みがない。

懐かしいシリーズを前にして、僕はあることを思い出した。姉と話したとき、このシリーズの中の思い出の小説について聞いた。タイトルもわからないが、ぜひもう一度読んでみたいという。それを突き止めてみようと思ったのだ。

貧しくて不幸な境遇の少女が主人公で、パーティーに着ていく服がない。ところが魔法に力で、三夜続けてきれいなドレスが手に入ったというもの。その時のドレスの挿絵がかわいくて印象に残っているそうだ。

家族との待ち合わせまで時間はある。目次で、少女が主人公のファンタジーにめぼしをつけて、パラパラめくれば内容も確認できるだろう。ドレスの挿絵も手がかりになる。

各巻500頁の二段組でたくさんの小説が入っているが、目次には内容のわかる小見出しがついているから、候補は絞られる。一冊の確認に一分もかからない。ところが、棚の本が残り少なくなっても、それらしい小説は出てこない。見落としはしていないはずだが・・

そしてとうとうラストの本を見終わってしまったので、念のため全体の冊数を数えてみると、46冊しかなかった。全50巻だから、4冊足りなかったのだ。悔しいので、巻末の全巻の広告を確認して、抜けている巻をメモしておいた。

第9巻イギリス編7「透明人間、ピーターパン他」

第11巻アメリカ編2「若草物語、ポー短編、怪傑ゾロ他」

第23巻フランス編5「十五少年漂流記、海底二万里他」

第32巻ドイツ編6「飛ぶ教室、バンビ、チャペック短編他」

この4巻のどこかに目当ての小説はある。そう信じよう。

 

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