大井川通信

大井川あたりの事ども

「法科万能」佐和隆光 2002年6月4日 朝日新聞(夕刊)

佐和隆光(1942-2025)の訃報に接したのは、昨年5月だったと思う。僕よりほぼ20年年長の師匠世代(今村先生や柄谷や岡庭)にあたる著名な経済学者だったが、記憶に残る本はこれと言ってない。繰り返し思い出して印象に残っているのは、タイトルの新聞記事だ。これはぜひブログに記録しておきたかった。その一部を引用する。

 

・・・「法科万能」という言葉が示すとおり、明治以来、法学部出身者が長らく霞が関を牛耳ってきた。なぜ法科は万能なのか。理由は次の通りである。官僚の任務は「与えられた結論を正当化する」ことにある。与えられた結論の合理性、効率性、公正さは二の次に回され、「正当化」のための屁理屈づくりに官僚は精魂を傾ける。そんな仕事が法科向きなのは、弁護士の仕事との、ある種の類似性を指摘しておけば明らかだろう。科学や経済学を学んだ者は屁理屈づくりを概ね苦手とする。・・・屁理屈が理屈として通用するのは国内だけである。国際会議では、屁理屈はあくまで屁理屈でしかない。・・・

 

このエッセイが印象に残ったのは、僕が実際に体験した解釈法学という学問、そして公務員の「正当化」という屁理屈づくりの仕事の実態に見事に刺さったためである。この屁理屈が外部から突き崩される場面を実際に何度も体験した。今もその醜態が全国にさらされている最中だ。

ところで、この機会に法学について扱った記事をまとめておこう。大学で専攻した学問にはどうも愛憎こもごもの思いがあるようだ。

「法学部・経済学部・商学部」は、近代化の渦中で、法学が単なる屁理屈ではなく、権力側によっても、またそれに対抗する側にとっても確かな力を持っていたことを発見している。

「二人の法学者」では、自分の考え方に解釈法学の勉強がプラスに作用しているかもしれないという気づきを書いている。

「登記を為すに非ざれば・・・」は、法学徒ならではの作文で、自分には愛着があるもの。

 

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バイキングとたこ焼き

家族3人で、筑豊を越えて朝倉市にドライブに行く。お菓子屋さんの「ハトマメ屋」が目標で、片道2時間くらいの道のりだ。しかしせっかく出かけてもハトマメ屋だけでは寂しいから、近くのバイキングレストランに立ち寄ることにする。

バイキングは僕には鬼門だ。バイキングには目がないのだが、食べすぎて体調を悪くしてしまう。同行した次男からはかつて、「お父さんは読書会では言い過ぎて後悔し、バイキングでは食べすぎてお腹をこわす」と見事に父親の人間的な弱点を見抜かれたことがある。

その次男の前で、また同じ轍を踏んでしまった。さして美味しくもない田舎料理のバイキングなのだが、せっかく料金をはらったのだからと、できるだけ多くの料理をお皿に乗せて、それを何皿も食べてしまう。次男はというと、自分が食べたいものだけを皿の上にちょこんと乗せるだけだ。飽食のZ世代VS貧困の昭和30年代生まれとの決定的な断絶を見る思いだ。

そのあと、食べすぎで気分が悪くなった僕はハトマメ屋の駐車場で車を降りられず、30分ばかり熟睡してなんとか回復する。結局目標だったハトマメ屋の店内にも入ることができなかった。秋月で次男の好きそうな古道具屋に寄り、どうにか宗像まで帰ってくる。

ところで、次男に、今回のドライブで何が良かったと聞くと、たこ焼きだという。たしかに行きと帰りに別のたこ焼き屋に寄った。

行きは、何か月前に妻とドライブの途中に初めて寄った飯塚の「たこ新」で、年配のご婦人二人が切り盛りするお店で、美味しかった。それ以来妻はたこ焼きがマイブームだ。今回も、カーナビで同じ道を行くから寄れるだろうとひそかに期待していた。狙い通り店を見つけて、目の前のコンビニで15分待つ。家は遠いが以前寄ったとき美味しかったのでまた来たというと、店主は、うちのたこ焼きは美味しいよ、と自信満々。今回も外側がカリカリに焼けて熱々で旨かった。

宗像に戻ってから、久しぶりに近くを通ったので、昔よくかよった「三味」でたこ焼きを買う。ご主人は引退してしまって、奥さんと息子さんでテイクアウト専門店を営んでいた。低価格を維持していたが、タコはずいぶんと小さくなっていた。それでもグチャとしたお好み焼きのような触感に当時の面影がある。

なるほど今日のドライブの目玉はたこ焼きだったと思いなおす。

 

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日本語指導とネパール語母語学習

アジアンプラザでの日本語指導の二回目。今回も見学という立ち位置で自主的に参加したのだが、先生が遅れたためそのつなぎで授業をすることになった。頼まれて結果的にそのまま2時間の授業をすることに。

今回は3人で、二人はフィリピン出身。そのうち一人は、来日1か月で、日本語の学習は来日直前の1週間でネットで文字の学習をした程度。会計学の勉強を日本でしたいという希望をもっている。もう一人は来日4か月で、母国の薬剤師の資格証を見せてくれた。日本でも勉強して薬剤師の資格をとって働きたいということだった。

二人の日本語の勉強の手段を聞くと、市内何か所かの日本語教室に通っているという。事情ははっきりわからないが、日本語学校に入学するのではなく、とりあえず無料の指導場所を探して掛け持ちで学ぶというスタイルがあるのかもしれない。

もう一人は母子で日本での高校入学を目指している人で、彼女の日本語力もまだ初級の始めくらいだ。薬剤師の彼女が少し話せるくらいで、3人の日本語力はまだ低くばらつきもある。こういう時はどうしたらいいだろうか。まだここで授業見学すらしていない。

保護者として参加している中国人の日本語教師の方にアドバイスを求めると、3人で会話をしたらということだったので、まずは、自己紹介。つぎに趣味。日本でやりたいこと等と順番に話してもらって、それぞれ話をふくらませた。日本語教師の勉強の成果をベースにして、社会教育や読書会の司会などの経験も総動員して、なんとか教育的なフリートークが成立してしたと思う。

自分のテキスト(練習問題)を持っているのは一人だけだったので、後半はその練習問題を、全員で復習する形で学習を進めた。他の二人にとって、進度があっているかはわからないが、順番にあててとにかく考えて話してもらうようにした。

初歩レベルの日本語学習者とのコミュニケーションと日本語指導は初めての体験で、なんとか大雑把なイメージをつかむことができた。

このあとは、ネパールの小学生たちとの母語学習。デバリガナ文字のプリントも板書もほとんどわからないし、会話の内容もほぼわからない。なんとなく調子を合わせて、知っている知識の範囲でなんとか授業に参加する。日本の学校にいる外国人の子どもの気持ちが少しわかったような気がする。

ただ、教材の音声とは違って、子どものネパール語には感情がこもっている。全身の体重が乗っている。たとえば「マ」(わたし、僕)という簡単な一人称の言葉の本来の意味合いを、初めて知ったような場面があった。

授業のあと、子ども食堂のあまったお弁当をいただいたので、帰りの駅のベンチで食べた。

 

 

灼熱の筑後地方を彷徨う

仕事で筑後地方にある二つの事務所を訪問した。車での出張も考えたが、真夏の長時間ドライブは相当きつい。電車にしたのは正解だったけれど、駅からのわずかの徒歩がダメージになる。しかも、老齢のためなのか、本来のセンスなのか、二か所とも道を間違えて倍くらい歩いてしまった。

筑後地方には暑い時期に歩いた思い出が多い。廣松渉の旧家を探して柳川を歩いたときも暑かったし、取り壊し前の有明鉱を見学するために大牟田を長時間歩いたときも暑かった。

長く勤務した今の仕事も、あと半年余りで引退だ。それ以降は関わることのない事務所や同僚なので、気楽に訪問し話ができる。「末期の眼」で見ているところもある。

一つの事務所では、びっくりするくらい真面目に、仕事のことを突っ込んで話してしまった。僕の専門に仕事をしてきた分野はタブーの多いところだ。僕は昔からタブーを破って本来やるべきことをしようと場違いに主張してきた。そのエッセンスのようなものを、さして親しくもない後輩に押し付けたことになる。

世の中もどうしようもないところがあるし、職場も同様だ。それに従いながら、可能性をどこに見出すか。個の力をつけて機敏にふるまうしかない。そんな結論に互いに納得しながら別れる。

ところが、もう一つの事務所では、昔からの同僚がいたためか、徹底的にふざけて、得意のギャグを言いまくってしまった。僕の仕事関連にも冗談好きで穏やかな人はもちろんいる。しかしその人達のくだけた話題というのは、酒や食べ物のことなど社会人として一般的な許容範囲にあるもので、僕のようにエキセントリックなギャグを交えたりはしない。広い執務室の両端で天候が違うことがあるなんてふざけた冗談を口にする人はいないのだ。

一日の出張で、自分の仕事上での両面が意図せずにあふれ出てしまったことが、我ながら驚きであり、いっそうの消耗の原因にもなった。

普通のコミュニケーションが苦手で、「積極奇異」という戦略をとることで自分を守ってきた僕は、過剰な態度をとりがちだ。普通のコミュニケーションが苦手だと、普通の仕事も当然苦手になる。苦手な世界で責められ続けては、メンタルがおかしくなってしまう。だから、仕事についても過剰に突っ込んで誇れる部分を作り、また過剰なまでにふざける態度をとることでバランスをとってきた。

よくこんなアンバランスな戦略で、結果的に大きく間違えることなく仕事が続けられてきたと思う。社会人になって今の仕事に就く前の7年間は疾風怒濤の期間であり、その後の35年間も危うい試行錯誤を続けてきた。

灼熱の太陽に焼かれたあげく、二つの事務所で全く別の自分を演じたためにぐったりと疲れて、帰りの電車では一時間半眠りに落ちる。

 

 

 

おみくじが伝える教え

新宿区大久保の西向天神社にお参りした時、記念におみくじをひいた。神社の名前入りのおみくじを探したが、それはなかった。100円で引ける「御神籤(おみくじ)」とだけ表に書かれた、どこの神社にもありそうなもので満足する。日にちと神社名をメモしておけば記念にはなる。

僕は、もともと占いやおみくじを信じるタイプではないので、自分からおみくじをひくことはなかった。ただ、以前読書会で『おみくじの歌』という本が課題図書になり、そのときにおみくじに短歌が載せられていることを初めて意識した。それで試しにあちこちの神社のおみくじを引いてみたことはある。

今回、おみくじの文面をしげしげとながめて、これはとてもよくできていると思った。僕が引いたおみくじには「第二十二番」と書かれているので、たぶんおみくじのパターンは30とか50とかあるのかもしれない。限られたパターンの一つであるのを隠さないのはいい。(以前のコレクションで確認したら、多くのおみくじに番号がふられていた)

まず、冒頭に短歌が掲げられ、その解釈が書かれている。

「雪の上にほのかに咲ける白梅に有明の月にほふ清(すが)しさ」

「雪の上にかすかに梅の花の香りが漂い 曙の月がさしています 幸運は直ぐ目の前に来ているのです しかし祈りの心を忘れてはいけません 幸運は壊れ易いものです 誠心(まごころ)を尽くしなさい」

歌はいかにもの情景を詠んでいて、おみくじという場にはふさわしい感じがする。ただし、歌の解釈はむりやりに教訓めいたことを付け加えている感じは否めない。祈りや誠の心の強調は、やはりこの場にはふさわしいだろう。

次にようやく運勢が来る、吉、である。僕も含めて多くの人は、これを確認するだけかもしれない。しかし、むしろ歌が本体なのだ。

このあとに、人間の様々な望みについての一口コメントが並ぶ。気になることがある人は、その部分だけ読むのだろう。項目は以下の通り。過去のコレクションで確認すると、おみくじによってかなりの相違があるのがわかった。今回のおみくじで言うと、仕事という項目は欲しいところだ。

「願望、待人、恋愛、縁談、お産、進学、就職、家庭、病気、旅行、事業、訴訟、転居、失物、相場(賭)」

裏面には、「神の教」と題して、また、歌と文章がある。同種のおみくじを見ると、この歌は、教訓めいた短文(箴言)だったりもする。

「憂き事も嬉しき事も我はただ、御前(みまえ)に告げん神の子ゆえに」

「神様の有り難さは、口や筆では表せない。神様の忝(かたじけな)さは、形や物で表わせはしない。神様の暖かい御懐(みふところ)、それは手に触れて知ることは出来ない。ただ朝に夕に明き真心で拝みましょう。今日一日を己の職務に勤しみましょう。拝む心、励む身に、晴れやかな明日の幸福が約束されます。」

歌の「御前」とは、神のことだろう。これは、ぐっと親しみやすい神である。解説の文章の方も、日本人が根底にもっている神の観念(感覚)について、過不足なく描いているように思える。

おみくじという教えの伝達のルートは、意外と確実で有効な手段なのかもしれない。少なくとも、我々の内なる神観念を再確認し活性化する場にはなるだろう。

 

 

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はじめての日本語指導

アジアンプラザでの日本語指導の現場にはじめて足を運ぶ。多言語、他民族の多様な空間に、よくわからず、戸惑いながら巻き込まれていく。この経験が貴重なのだろう。

結果的に、二人の人と話すことができた。一人は保護者で、中国では日本語と国語の教師をしている女性だ。7月に中国の中学校を卒業した娘さんを連れて来日している。娘さんは来年4月に日本の高校に入学し入寮予定だ。それまでの期間娘さんに日本語の勉強をさせながら母子2人で日本で生活する予定とのこと。娘さんのその後の教育も日本でを希望しているようだ。

僕は日本の国力の低下に伴って日本での教育の魅力も少なくなっているのではないかと聞いてみたが、日本を贔屓している感じで答えてくれた。経済成長至上主義ではなく、自然と調和した生活のモデルを作るのが今後の日本の方向性ではないかというと、同意してくれる。とても流ちょうな日本語で、丁寧な立ち居振る舞いの人だった。

日本語指導は、小学生のグループと、高校生と大学生くらいのグループに分かれていて、期待していた社会人(保護者)対象のグループはない。それぞれ先生がついているので、見学だけしていようかと思ったが、今日初めて参加した人がいて、離れて一人でひらがなの練習をしている。指示をした先生は、別の仕事があるようだったので、そのあとを僕が引き受けることにした。

先月ベトナムから来日したという女性で、童顔だから子どもかと思ったが、20代の既婚者だった。昨年日本人の夫と結婚したが、英語で会話しているので日本語は習っていないという。日本での生活で必要だからということで、ネットで教室を探して申し込んだらしい。

練習用紙でひらがなを順番に書きとらせながら、テキストに載っている単語を書かせて、意味を教える。たとえば、「あいうえお」の学習のあとに「あい(愛)」や「いえ(家)」という言葉を教えるというふうに。

単調なひらがなの書き取りの過程で、意味のある言葉を覚えるという体験をはさむのはよかったと思う。彼女の日本語の語彙はとても少ないが、それでも耳に残っている言葉はある。「えき」とか「ちかてつ」など、生活の場面で使われる言葉だ

生活の場面とひらがなでの言葉の知識が結びついた瞬間に、彼女はとてもうれしそうな表情をする。しかし、日本語がほとんどわからないから、日本語で教える「直性法」は無理だ。身振り手振りも限界があるので、英語が唯一の意思疎通の手段となる。上のレベルの学習者相手でも、英語に頼っている先生がいる。ごく基礎的な英語でいいので咄嗟に使える瞬発力が必要であると痛感した。

2時間で、ひらがな練習のほとんどを終え、日本語の言葉と意味を50個ほど書いた練習用紙を持って、彼女は礼儀正しくお礼を言って帰っていった。

 

 

Z世代とエピクテトス

大げさなタイトルだが、身近な発見について書く。職場にも、デジタルネイティブというかZ世代の若者がいる。もうすぐお別れだが規模の大きな職場の利点は、日常的にいわば異文化交流を体験できる点だ。

Z世代は、1990年代半ばから2000年代前半くらいの生年だそうだから、自分の子どもたちがちょうどそれに該当する。子育てでの違和感も、この世代論で説明できるところもあるだろうが、自分の子どもが平均値であるとは思えないし、近すぎるだけに対象化して分析することもできない。

さて、Z世代の彼女は、いつもニコニコとしながら、押すところは押してていねいに仕事をしているようだ。僕も経験したことのあるあまり楽しくはない仕事なので、たいへんでしょうと聞くと、何にも気にならないし、大丈夫だという。

その理由を聞くと、すらすらと教えてくれた。常日頃から考えていて十分に納得している解答のようだ。自分は、「しなくちゃいけないこと」とそうでないことを分けている。仕事は「しなくちゃいけないこと」だから、面倒に思ったり、嫌に思ったり、気に病んだりしない。

とても平明でわかりやすい理屈だが、一筋縄でいかないものがひそんでいるような気がする。

自分が若いころはどうだっただろうか。僕はプライベートと仕事を気分的に切り分けられる人間だった。だからどんなに仕事がつらいときも、メンタルが守られていたような気がする。しかし、仕事のことは仕事ですいぶんと悩んだ。自分の生活の中心にそれがあることは疑えなかった。

Z世代の彼女にとって、仕事とそれ以外の壁はしっかりあって、自分の生活の中心が仕事以外にあることを明確に意識しているような気がする。仕事は、自分の生活を成り立たせている必要悪だ。だから、そこに特別な期待はしないし、そのかわり落胆したり、がっかりしたりすることもしない。

この態度は、ギリシアのストア派の哲学者エピクテトスの思想や生活態度と似ているような気がする。エピクテトスは清沢満之が愛読していたので、僕も読んだことがある。

自分の周囲の世界を、自分のコントロールの効く領域と、自分の意のままにならない領域とに二分する。そのうえで、自分の関心を前者のみに向けて、後者については全く考えない。考えてもしょうがないことは考えずに、自分が責任をもって生きられる場面のみに集中する。

エピクテトスは奴隷階級出身であって、彼の境遇がこうした厳しい峻別の思想を生んだのだろう。Z世代にとっては、社会はどこか抜けられない牢獄のように感じられているのかもしれない。

 

 

怪談版「ヒラトモ様の祟り」台本

怪談版「ヒラトモ様の祟り」台本  2026.8.1.上演

【前説】

みなさんは、宗像の小さな山の上にあるヒラトモ様という神様を知っていますか。

宗像の伝説を集めた古い本には、こんな風に紹介されています。

「宗像の大井村の丘の上に、小さな石のホコラがある。土地の人はヒラトモ様と呼んでいる。ヒラトモ様は、壇ノ浦の闘いに敗れて、この里に落ち延びた平家の偉いお侍だ。追手に迫られ、自害したヒラトモ様を弔って、小さなホコラを建て、今も村中で毎年お祭りをしている」

しかし、私が歴史を調べると、平家のお侍の墓というのは真っ赤なウソであることがわかりました。だから、本当の神様の由来を、こんな紙芝居にしてみたのです・・・(一つ、聞いてみて下さい)

【紙芝居1枚目】

さあ、さあ、今から「ヒラトモ様」の紙芝居をやるよ。面白くてちょっと悲しい神様の物語だ。

宗像には、古墳群といって、小さな古墳がたくさんある山があります。今からお話しするヒラトモ様は、そんな古いお墓をめぐる物語です。

【紙芝居2枚目】

今から200年くらい前の江戸時代のお話です。村の丘のてっぺんに誰のものかわからないお墓がありました。あるとき村人が掘ってみると、刀やカブトやお金が出てきました。

【紙芝居3枚目】

それから50年ばかりたった江戸時代の終わりです。伝染病のコレラで村人がつぎつぎに亡くなりました。村人たちは、これをお墓から宝物を盗んだタタリと考えたのでしょう。名無しのお墓のわきに、小さな石のホコラをたてて、伝染病が収まるように祈りました。

【紙芝居4枚目】

ところが、明治維新がおきて、世の中は戦争の時代になります。村人も徴兵されましたが、村の神様は「和歌神社」という名前で、和歌の名人をお祭りしていますから、争いごとは苦手です。

【紙芝居5枚目】

そこで、人気が出たのは山の上の神様です。刀やカブトが埋まっていたのは、平家の有名なお侍のお墓だったのだろう。戦争のお願いなら山の上の神様がいいということになり、「ヒラトモ様」と呼ばれるようになりました。

昭和になると、徴兵された村人の無事を祈り、願いがかなって戦争から帰って来た場合にはお礼に木刀を納めていたそうです。日本の戦勝祈願のために村の婦人会が当番でお参りするようになりました。

【紙芝居6枚目】

今から80年前、昭和20年に日本が戦争に負けると、戦場から兵士たちが村に帰ってきました。しかし、平和の時代になったために、村人はヒラトモ様にお礼をしなくなりました。戦争のお願いをした神様のことを、みんな忘れたかったのかもしれません。

【紙芝居7枚目】

もともとは名無しのお墓だったヒラトモ様は、平家に関係のある戦争の神様にさせられたあげくに、今では忘れられて、もとの名無しの神様に戻ってしまったのです。

やがて、山の半分が削られて、みかん畑になりました。山の斜面にはソーラーパネルが設置されるようになりました。ヒラトモ様のいる山の上もずいぶん窮屈になっています。

【紙芝居8枚目】

村人から忘れられたヒラトモ様は、今、どうしているでしょうか。

木刀の代わりに、木の根っこの棒切れたちを家来にして、月明かりに照らされて、毎晩山のうえでお祭りを楽しんでいるのです。

(これで、ヒラトモ様の紙芝居を終わります)

【間奏】

・子ども:「紙芝居のおじさん! ヒラトモ様はなんて楽しい神様だろう。私も会いにいきたいなあ! ヒラトモ様のいる山を教えてよ!」

・紙芝居のおじさん:(急に怖い顔になって)「いや、それはだめだ。ぜったいにヒラトモ様に会いにいってはいけないんだ」

「仕方がない。本当のことを教えよう」

【懺悔話】

これは、私の懺悔話になります。

私が、この「宗像伝説風土記」を読んで、ヒラトモ様を探したのは、今から12年前の、寒い冬でした。山の中でやっとで見つけたヒラトモ様は、とても不気味な姿をした石の神様でした。人間みたいな形をしたたくさんの木の根っこが、ホコラを取り巻いていたのです。

私は怖くなって、無我夢中で、山を駆け下りました。ヒラトモ様に手を合わせることも忘れていたし、無意識に、ホコラにお供えしてあった古いお賽銭をつかみとっていたのです。 

これでヒラトモ様の怒りに触れてしまったのでしょう。

それから一週間後、私は一人暮らしをする母親から思いがけない電話を受けました。(リーン、リーンと携帯の着信音をならす)

「なんだい、母さん、・・お前に貸したお金って・・おれはそんな電話かけてないよ。・・いや、それは俺じゃない。・・なに、俺の職場の同僚のヒラトモさんという人が、お金を取りに来たって・・うそだろ・・で、いったいいくら渡したんだ。・・え、500万円!」

(一瞬、固まったあと、肩を落として観客に向かって話す)

そうなんです。私の母親は、こうして500万円を盗られてしまったのです。しかし、母親からお金を奪ったのが、今はやりのオレオレ詐欺ではなく、ヒラトモ様のタタリだったことを、私は誰にも話せませんでした。

それ以来、私はこうして、紙芝居をすることで、ヒラトモ様の霊(たましい)を慰めているのです。

だから、みなさん、(初めてヒラトモ様の写真をみせて)宗像の山の中でこのホコラを見つけても、絶対に近づいてはいけません。絶対に・・・・

(これで終わります)

 

 

怪談を作る/怪談を聞く

地元の街づくりのイベントで怪談を話すことになった。知人が企画するイベントで協力を求められたのだが、僕の方も大井川歩きでの実体験をベースにすれば「怪談」を作れるという目算があったのだ。手作りの紙芝居を使うことができるだろうし、それは大井川歩きの活動の一環にもなるだろう。

それで、実際にそのイベントの怪談話者を何とか演じることができて、イベントも成功したので良かったのだが、準備は予想以上に大変だった。また、当日のイベントで感じるところもあった。それを書きとめておきたい。

まず、準備段階のこと。

地元ではかろうじて平家の落人の墓として伝えられるヒラトモ様について、実際はどうだったのかを説明する紙芝居はある。近代化に翻弄される小さな神様の物語ではあるが、ホラーではない。ヒラトモ様発見直後の母親の詐欺被害は、自分の中ではつながりがあって恐怖を感じさせたのだが、第三者的には両者のつながりが弱い。

勉強会仲間の吉田さんと、職場の同僚の田中さん、中村さんの助言を受けて、怪談として説得力のあるものにすることができた。最後には、妻と次男からのアドバイスも受けた。

吉田さんは映画関係のプロだが、アドバイスを聞くとあらためてホラーの教養に感心した。職場の中村さんはテレビの怪談シリーズのファンということで、恐怖を演出するための決定的アイデアをもらえた。妻は怪談が大好きで日常的に聞いているから、その助言は信用できた。

僕は妙に偏屈で自信家なところがあり、ふだんあまり人の意見に耳を傾けない。しかし、怪談の準備段階では、自分がまったく思いつきもしないような優れたアイデアを他者から次々に与えられて、共同学習や対話的学習の有効性を、ほとんど初めて身をもって知らされた。何よりみんな怖い話が好きであり、そうでもない自分は全くの素人として謙虚に臨まないといけないという自覚をもつことができたのがよかった。

次は、イベント当日のこと。

駅前広場のベンチの座布団に座り、蝋燭型の照明が点在する駅前広場の一角で、周囲の50名くらいの聴衆相手に、6人の話者が順番で怪談を話した。雰囲気は予想以上に良かった。僕以外は、自分の恐かった実体験を自分の肉声で語るという自然なスタイルで、芝居がかった組み立ての怪談話は僕だけだったと思う。

おぼえている範囲でいうと、老人施設でお年寄りが落ち武者の幽霊を見て、そこに「霊道」が開いていたという話。お祓いによって幽霊は現れなくなるが、その施設の場所は、後日、霊能力のある人からも「霊道」があると指摘された。また、金縛りにあった話。女性の手だけの幽霊に足を握られる。また、金縛りと同時に不審な女性からの電話を受ける。防いだのは盛り塩。神も仏も信じないけれど、奇妙なモノだけは見えてしまうという話。事件の直後の現場を車で通ったときに、全くその事実を知らずに被害者のイメージを見ていたという。神職の家に生まれた男性が、幼児の頃、ビニール袋に包まれた半身の死体を見つけてしまい、家にまで死体に追いかけられた話。親戚の霊能者によってお祓いを受けることで、奇妙な霊の呼びかけを最後に救われたという。

かなりいい加減な要約で話者の方々には申し訳ないが、この少数のサンプルでも、人々が怪談(怖い話)として認識し、またそう期待する話の型を知ることができるだろう。

この世界には、奇妙なものが存在し、それは犯罪や事故のような明確な原因を持っているかどうかは別にして、この世のものに対する悪意や恨みや攻撃性を持っている。そういうモノに対する出会いは偶発的な事故みたいなものであり、お祓いやおまじないなどの外在的な手段によってかろうじて助けられるしかない。

奇妙で悪意をもったモノを包摂する超越的世界に対する信頼(信仰)はここにはない。だから、その攻撃を防ぐのは、これも我々の世界の外部にあるような理解不可能は秘術であり、われわれ人間からの積極的な対話や働きかけは想定されていない。

一方、ヒラトモ様の世界観が怪談と一線を画するのは、この神の怒りと不満が、人間たちが集団で行ってきたことの総和によるという因果関係であり、我々の側の自覚(紙芝居の語り)によって和解できるという物語構造にある。

ところで、僕は、近頃の怪談ブームにこそ関心がなかったが、昔からホラー映画やホラー漫画を愛好していたことを思い出した。ブログの早期のカテゴリーに「恐怖と事件」があって、実際に凄惨な事件が起きた現場を見て歩くことさえしている。自分が恐怖マニアであることをすっかり忘れて、怪談イベントに参加したというのが、いかにも間抜けな僕らしくて面白い。

今回の怪談話をきっかけにして、スピリチュアルブームとの関連で怪談の流行についてあらためて考えてみたいと思う。

 

 

子どもたちとネパール語の母語授業を受ける

勤務後、吉塚のリトルアジアマーケット(吉塚商店街)に寄ってみる。数日前寄ったときは、ヒンドゥー教の神様ガネーシャの像があるアジアンプラザは閉まっていたので、お釈迦様の像がある吉塚御堂に寄って、堂守とお話した。数か月前に、アジアンプラザに日本人の住民が怒鳴りこんだという新聞記事を見たが、リトルアジアマーケットも当初の理念どおりには上手く運営できていないようだ。昨今の排外主義的な世論の動向の影響も大きいだろう。

今日はさいわいアジアンプラザが開いている。僕が何回か顔を出して、拙いネパール語のやり取りをしていたのは二年前のことだが、その時知り合ったバストラさんと子どもたちと再会することができた。当時よりは、多少ネパール語を話せるようになったがたいしたことはない。

ちょうど、母語教室の時間で、僕はバストラ姉弟ら小学生たちと、ネパール語の学習に加わることができた。

先生はバストラさんで、子どもたちにかなり厳しい指導をしていた。ネパールの学校が経験した子どもが多数派だが、そうでない子どももいる。母国の学校経験のない子はデバリガナ文字も自由に使えないようだ。

バストラさんは、ネパールの学校と同じように厳しくやると宣言する。年齢とは関係なく、ネパール語力に開きがあるので、基礎的な授業では退屈する子どもが出てしまうのだ。ただし一見できる子どもであっても、正確なネパール語が使えるわけではない。だから文法や語法についてくわしい解説がある。

僕にはありがたいが、グループで最底辺の学力であるのは間違いなくて、とくに聞き取りの力がまったくない。バストラさんからは、主語につく助詞的な「ライ」や「レ」のニュアンスや、接続詞の「ラ」(=and)の用法を習う。

習った語法を使った例文を作るように指示されたときには、僕も順番に当てられて発表する。自分で作ったネパール語例文ノートをのぞき見ながら、なんとか答える。考えてみれば、僕がネパール語の授業をクラスで受けるのは初めてだ。独学者にはこんな機会は感動的だが、次回以降参加するとしたら、子どもたちの学習のモデルとなるような姿を見せないといけないだろう。

毎週金曜日は「母語の日」のようだから、これには参加したい。これとは別に、日本語教材を使った日本語教室を毎週開催しており、来週火曜日にあるという。バストラさんからも誘ってもらえた。実態はまだわからないが、日本語教師としての実践力を鍛える場になってくれるかもしれない。

動き出して数日で、ばたばたといろんなことが決まっていく。縮こまってないで、とりあえず動くことが大切だと痛感する。