大井川通信

大井川あたりの事ども

一代終えるのは「やおいかん」

タリーズコーヒーで例のごとく勉強していると、となりの席に男性が座った。髪が少し伸びていて、やや太めのラフな恰好をしたおじさん、といっても僕よりはだいぶ若いだろう。その向かいには同じくらいの年かっこうの女性が座って、二人の会話はいやでも耳に入ってくる。男性の声にはハリはあるが、話す内容は明るくはない。

生活に何の希望もない。食べるか飲むかくらいだ。明日は面接に行くが、何を着ていこうか。採用されても、行くかどうかはわからない。いろいろ言ってくれる人はいるけれども、(テーブルのサンドイッチを指さして)この箱をくれる人はいない。毎日これを二つくれたら、それで食っていける。

相手の女性はもっぱら聞き役だが、男の方も、あなたの方も大変だろう、と気を回す発言もする。二人は夫婦とか恋人とかいうわけではなさそうだ。

「一代終えるのはやおいかんですの」と魚屋のおばちゃんが昔言っていたけれど、ほんとにそうだ、という言葉を残して、男は相方と席を立った。

やおいかん、というのは九州地方の方言で、ちょっとやそっとではいかない、という意味だ。人が一生を終えるのはなかなか大変だ、ということだろう。

一代終えるのはやおいかん。

なるほど、そのとおりだと僕も思う。生まれて、大人になって、働いて、老いて、死んでいく。どんな人生であれ、一生を歩く抜くのは本当に大変なことだ。そんな共感のエールを送るいとまもなく、彼らはどこかに行ってしまったけれど。

 

まどマギの別れ

職場の同僚のヘザーさんが、急に日本を発つことになった。ヘザーさんが、来日したのは6年ほど前で、僕とは仕事上特別なかかわりがあったわけではないし、この間3年以上職場が変わって顔を合わさない時期もあった。

ただ彼女が、アメリカにいるときから日本のアニメが好きだというので、来日した当時アニメの話をしたことがある。僕が、「魔法少女まどかマギカ」を見たばかりの頃だったが、たまたま彼女も好きで、自分の息子を物語の主人公の名前から、カナメと名づけたという。主人公は「鹿目(かなめ)まどか」だから、それは名字ではないかと思ったが、そんな小さなことは気にしないのだろう。

それでヘザーさんには、まどマギのグッズをあげたり、英会話の練習をかねて、僕の好きなキャラクター暁美ほむらの名セリフの英語版を覚えて披露したりした。

「悲しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようのない世界だけれども、だとしてもここは、かつてあの子が守ろうとした場所なんだ。それを、覚えてる。決して、忘れたりしない。だから、私は戦い続ける・・・」

アニメの最終話の最後のシーン。暁美ほむらはこう言い放って、引き絞った弓を放つ。

最後にそんな名セリフとともに別れを告げようと思ったけれども、日程があわず、それもかなわなかった。ただ、至急アマゾンで取り寄せた、まどマギの10周年のカードとキーホルダーのプレゼントは渡してもらうことはできた。

カナメくん一家に幸多からんことを。

 

 

馬柱とは何か

競馬に触れるようになって、馬柱という奇妙なコトバを知った。

馬柱ってなんだろう。「人柱」なら、築城や架橋や堤防工事のときの神にささげる生贄のことだから、少し不穏で残酷な匂いがする。レース中の事故で亡くなった馬を祀った慰霊碑みたいなものだろうか。

あるいは、「蚊柱」という言葉もある。蚊やユスリカが群れをなして飛んで、柱みたいに見える現象だ。レース中に馬が密着して、馬群が柱みたいになることをいうのだろうか。

競馬新聞やスポーツ新聞に載っている記事で、レースに出る馬の情報がぎっしりつまった出馬表というものがある。その一頭分の縦一列を「馬柱」と称するそうだ。競馬好きなおじさんたちが、赤鉛筆片手に検討している姿を見たことはあるが、その時熱く見つめていたのが出馬表の馬柱で、なるほどそんな記事はあったなというぐらいの記憶はある。

コメダ珈琲には新聞がおいてあるが、ふとふだん手にしないスポーツ新聞を手に取って広げてみた。馬柱を見るためだ。すると、ちょっと感動する。これは想像以上にすごいものだった。

縦一列の長い欄のなかに、その馬についてのおよそありとあらゆる情報が圧縮して詰め込まれている。血統や馬主、調教師、騎手はもちろんのこと、今までの成績にかんしても、距離、コース、右回り・左回り、脚質等の細かい分析がある。専門家数人の予想や短評なども。

その分野に無関心ならまるで意味のない数字や符丁の集積に過ぎないということでは、僕にとっては新聞の株式欄みたいなものだったが、いざ中身を知ってみると、そこには具体的でいきいきとした情報が息づいているのだ。

ふと、人間についてもこんな馬柱みたいなものが作れるんじゃないだろうかと思う。その人を丸裸にするような情報の集積を作るとしたら、馬以上に詳細で利用価値があるものが作れるだろう。履歴書とか、マイナンバーカードどころではない。

人間にプライバシーという、一見奇妙な権利があることの理由が分かった気がした。

さて、次の試練は

ベンヤミンの読書会をなんとか乗り切ったと思ったら、次の資格試験の受験日が一週間後に迫っている。今年度は区切りでいろいろ詰め込もうと計画しているのだから、しょうがない。

今度の試験は、とくに難しいというわけでないので、先月の登録販売者の試験が終わってから勉強を始めるつもりだったのだが、なかなか本気になれなかった。

FP技能検定の3級試験で、おそらくファイナンシャルプランナーの略称だ。試験範囲の保険分野で言えば、もと生命保険会社の社員だし、大学時代のゼミはなんと損害保険法だ。年金の分野では、ずいぶん前に社会保険労務士の資格をとったし、不動産の分野では、これも同じくらい昔に宅建の資格をとった。税金や相続のことは、暮らしや仕事の中でそれなりに経験がある。金融の知識は、経済がらみで関心をもって本をあさったこともある。

どれもこれもなじみのあるもので、広く浅く初歩的な知識を学ぶだけなので、あまり食指が動かなかった。とはいえ、これからの自分の生活設計には必要な知識だ。お金と信用によって回っている資本主義社会の仕組みを通覧することの意味もきっとあるだろう。

まずは興味をもって、新鮮な目で勉強分野に立ち向かっていくこと。取りつく島もなかった前回の薬品成分の知識よりはずっと取り組みやすいはずだから。

のこり一週間。重い腰をあげて学習を楽しむことにしよう。

 

考えることと振舞うこと

読書会での報告が無事終わった。9月の終わりにこの話をもらった時には、ちょうど人生の区切りの時期だから、読書や思索の面での総まとめとなるようなことができたらと思っていたが、準備もはかどらず、とてもそんなふうにはならなかった。それでも、会のメンバーとしての役割を果たしたうえで、自分なりの成果を残すことはできたと思う。

以前僕は冗談で「読書会芸人」を自称していたことがあったが、読書会という場所をいかに演出するかという点では「集大成」ともいえる会になった。参加者各人に著者になり切って何かしてもらうという課題を出した結果、メンバーが詩や思想劇の朗読を披露したり、自作の絵や若い時読んだ本を見せたり、ダンスを実演したりしてくれたのだ。

ベテランのメンバー(主宰は学生運動世代)が多い会だから、しゃべりたい人が自由にしゃべるというスタンスで、議論やコミュニケーションの場としては旧態依然としたところがある。僕は、ここ何年か、参加者の満足度を高める運営に自覚的な若い人の読書会に参加していろいろなことを学んだのだが、そのノウハウを多少アレンジして使うことができたと思う。

ベンヤミンの研究者である柿木さんとお話しすることで、自分が思想やコトバの問題について、ずいぶん雑になっていることに気づかされた。普通の生活者として生きていることを言い訳にして、考えるべきこと努力すべきことを投げやりにしてきたのだ。

柿木さんは、ベンヤミンの核心は言語についての思想にあるという。著書の中でも言語についての考察をていねいに紹介しているし、会の中でも静かに熱く語ってくれた。

ただ、今回の僕の報告でいえば、僕自身がベンヤミンの思想を議論することよりも、参加者各人にいかに良いボールを投げるかという振る舞いの方が、結果的に場に対する批評的な力を持ったような気がする。

 

 

 

 

近所を歩くということ

大井川歩きを自覚的に始めたころ残したメモがあるが、ベンヤミンの名前は出ていない。けれども、あえて名前をださなくとも、彼の考えや感覚は自分のみについてしまっているともいえるかもしれない。

過去のガレキの山の中から、過去の断片を拾い集めて救済するガレキの中を歩み抜く)というベンヤミンの方法の具体化、という視点で大井川歩きを考えてみよう。

めまぐるしく溢れかえる外の世界に付き従っていたのでは、目移りしてしまって、何かの破片をひろいあげたり、か弱い声に耳を傾けたりすることはできない。それには、この慌ただしい時間を止める必要があるが、そのために僕は、外の世界へのかかわりを、身体を尺度として限定することにした。

関わる世界の範囲を、自宅から歩いて帰る範囲にとどめたのだ。その範囲の外にどんなに魅力的なものがあっても、それを扱うことはできない。そして、関わりの方法は、歩く、話しかける、まねる、などである。語り合ったり、まねたりするのは、住民たちや自然の生き物や事物に対してだ。

こうして、ガレキの中から気になる破片や断片、廃墟と見つけ出し、その歴史や意味を調べたり、あの手この手で関わり続ける(写真、絵本、紙芝居、朗読、ツアー、参拝、献酒等)ことで、復活した廃墟(根源)の磁力を高め、その配置が新しい星座をなすのを目指している。

 

 

希望をもつ方法

次に最晩年の『歴史の概念について』からの引用。「人類は解放されてはじめて、その過去を完全なかたちで手に握ることができる・・・人類が生きた瞬間のすべてが、その日には、引き出して用いうる(引用できる)ものとなるのだ」

この原稿は、ベンヤミンが「およそ20年のあいだ胸の内にしまっていた、それどころか自分自身に対しても隠していた考え」であると手紙に書いていることを、今回の課題本で知った。つまり、ここでの考えは、当時の批評や学問の文脈にのらないため、大手を振って発表できることではなかったということだろう。

これは、とてもよくわかる気がする。この作品のなかには、クレーの絵「新しい天使」の解釈が描かれているが、うずたかく積みあがるガレキの前になすすべなく未来へと吹き飛ばされるという「歴史の天使」は、近代以降の世界を生きる人間の、正確ででありのままの姿だ。特別に優れた歴史観というよりは、誰もが共感できる普遍的なイメージだと思う。

すると、歴史の天使である人間は、目の前のガレキを組み立てて、過去の廃墟に命を吹き込むことができるだろう。それが終われば、次のガレキを手に取って。もし無限の時間があるならば、原理的には、全てのガレキをつなぎ合わせて、人類の生きた時間の全てをよみがえらせることができるだろう。

ベンヤミンの描くこの解放のイメージは、決して恣意的なユートピアではなくて、近代以降の人間が構想せざるを得ない必然的なビジョンだと思う。

以上、ベンヤミンの二つの引用で、目前の体験の中の破片や亀裂を見抜く視力と、遠大な解放のビジョンとの二点を取り上げた。同世代の日本の批評家たち(芥川龍之介小林秀雄林達夫花田清輝など)を読み比べてみると、同時代のガレキの山と向き合う共通の感覚と問題意識を持ちながら、この二点の遠近の奥行において残念ながら及ばない気がする。(むしろ戦後の寺山修司の文章にベンヤミンに近いものを感じる)

ここにベンヤミンの新しさとアドバンテージがあると思うのだが、100年近くあとを生きる現代人には、ベンヤミンの視線は当たり前のものになりつつあるのかもしれない。一つには、身近な経験に重きを置き、それと世界大の事象とを等価にみるような感覚(世界系)において。もう一つは、いまある現実の背後に、あったかもしれない可能世界(無数の世界線)を感受する感覚において。

 

 

 

 

ガレキの拾い方

ベンヤミンの勉強会の準備が難航している。少しでも自分なりのベンヤミンの理解を示せればという野心をもっていたが、僕がもっているのはそれこそ断片的なイメージに過ぎず、とても専門家の前に提示できるようなものではない。そもそも参加者が聞きたいのは、僕のベンヤミン論もどきではないだろう。

そんな自己顕示はやめて、あくまでベンヤミンになり切った姿を自己解説するという一参加者のスタンスに絞った方が、自分の提案した会の趣旨にあっているし、むしろそううでなければならないということにようやく気付いた。

参加者がベンヤミン扮する(彼の批評を身体的に模倣する)という会の企画自体が、課題本への一つの批評となっているのだから、そのことの意図を明確に説明することが、まず一点。

ベンヤミン論を読んで、それを手がかりにベンヤミンのテキストに入っていくことは、読み手なりのベンヤミン論をつくることにつながるかもしれないが、そういう論から論への連鎖は、いたずらに手間がかかるばかりで、袋小路にはいっていくのではないか。

彼の差し出す言葉やイメージやしぐさ(ベンヤミン生の破片)を拾って、自分の現実に駆け込んでいくことこそ、彼の思想にふさわしいのではないか。

次に、僕にとって忘れがたく、何度も反芻してきたベンヤミン文章の断片を引用することで、僕が彼から何を受け取ったのかを示すことにする。「そこをたらたらとくだってゆくと、ぼくが毎夜通った女の家がある・・かの女がどこかへ引っ越していったときから、門のまえに立つたびに、ぼくには、そのアーチが、まるで聴覚をうしなった耳介のようにみえた」(『一方通行路』から「中国物産店」の一節)

かつて、女性と付き合っていた時には、このアーチが見えてくるとどれほど心が高鳴った生の充実を感じていたにちがいない。そのまったく同じアーチが、間がぬけて虚ろな、生気を失ったもの(廃墟)になっている。しかし、その前に立って思い出すことで、その場所にもう一度命を吹き込むことができる。

大きな歴史的・政治的事件ではなくて、こんな身近な場所にこそ、世界体験の圧縮された原形(ガレキ化と救済)を見出す視力に、僕は驚かされたのだ。

 

ボンちゃん一周年

今日で猫のボンちゃんが家族になって、ちょうど一年がたった。

先住猫の九太郎との関係は、この一年で思ったほどには改善しなかった。たしかに今では、九太郎がうなってボンちゃんを威嚇する場面は、だいぶ減ったような気がする。九太郎の攻勢が原因で二匹が追いかけ合うなんてことは、少し前まで見慣れた光景だったけれど、今ではあまり目立たなくなった。

それでも、二匹が50センチ以内の近い距離で一緒にいる姿を見かけることはまずないし、利口者のぼんちゃんがいろいろ気を使っていることで、衝突が減っている感じがする。二匹の様子にほっとして心温まるなんて瞬間はめったにない。

しかし、まだ一年。これからを楽しみにしたい。

ボンちゃんはこのごろになって急に、夜中僕の部屋に来て「ふみふみ」をするようになった。仰向けになった僕の身体の上にのり、毛布の上から、両方の前足で交互に足元を踏みつけるしぐさをする。目をほそめて、ちょっとうっとりした表情だ。

八ちゃんも九太郎も、もっと子猫のときにさかんにふみふみをして、一歳を過ぎるころにはほぼ卒業していた記憶がある。ボンちゃんは、生まれて半年で我が家に来たが、そのころはほとんどふみふみしなかった気がする。

九太郎が妻を独占しているから、おこぼれでボンちゃんが僕のところに来てくれるのかもしれないが、とてもかわいい。

 

 

 

うしろすがたのしぐれてゆくか

姉が定年退職後にちょうどコロナ禍にぶつかってしまい、家籠りをしている間に、山頭火のファンになっていた。山頭火といえば、父親が好きだったことがあり、子どもの頃父親から教わった記憶がある。

父親は僕と同じ様に熱しやすく冷めやすい人だったから、山頭火熱は長くは続かなかったと見えて、書棚一冊しか持たなかった蔵書の中から、いつのまにか山頭火の本は無くなっていた。

今僕が住む街には、山頭火にゆかりのあるお寺があって、その寺の前の料亭に両親を連れていったこともある。そのときも父親が喜んだような記憶がないから、すでに山頭火熱はさめていた頃だったのだろう。

その料亭は閉店してしまったので、隣りの料亭で姉をもてなす。そのあと、筑豊山頭火の友人宅あとを車で見に行ったりした。

父親が亡くなって15年がたつ。還暦をすぎて少しくたびれた姉弟が、山頭火の足跡を訪ね歩く姿を、あなたは遠くからどんな風に見ているだろうか。