大井川通信

大井川あたりの事ども

早朝のファミレスで作戦を練る

大村さんとの対話に端を発して、井手先生への宣言、どうあげ女史への相談を通じて、僕の研究願望はしっかり頭をもたげてきた。どんな形で実を結ぶのか、結ばないのかはわからないが、テーマ的にも年齢的にも今回のチャンスを逃したら、今後の人生で研究にアクセスする機会は訪れないだろうという気がする。

土曜日の早朝ファミレスで、しばし思案にふける。これから準備を始めるにしろ、今までやってきたことをベースにしてそれを提示できるものにすることが肝心だ。いかにそれが薄くて物足りなくても、ゼロから始める準備ではたかが知れている。

そうすると、やはり「大井川歩き」のレポート化が必須だ。それには、自分なりの批評の実践と、民俗学社会学文化人類学歴史学、教育学、近代化論、コミュニティ論、自然認識等々の理解が含まれていたはずである。つたないながらもフィールドワーク(聞き取りやその書き起こし、絵本化)も行った。これには時間だけでいえば10年以上の思索と実践の積み重ねがある。この延長線上に、民衆宗教への問題関心もあった。今まで書き散らした雑文、作文をベースに、大井川歩きの成果物をまとめるのが至上命題だろう。

もともとそれを目指していたはずだが、明確な目標がないためにうやむやになっていたのだ。集中して継続的に行えば、半年くらいで(今年度前半の9月まで)でどうにかなるかもしれない。正規の論文ではないのだから、雑多なレポートで構わない。ただし、自分がやりたいことの輪郭だけははっきり出したい。吉田さんとの勉強会を進捗管理の場所とすることができるだろう。

もう一つは肝心の金光教理解を深めないといけない。教義と研究書への継続的な取組が必要だ。一方、その理解を支えるための宗教学、仏教学、哲学等の研鑽を続ける必要がある。ここでも従来からの取組の延長線上が基本となる。これも時間だけでいえば学生時代以来40年の経験があるはずなのだから。

浄土真宗近代教学(中でも清沢満之)、鈴木大拙梅原猛の仏教論、西田、廣松、今村、橋爪ら哲学者等の宗教理解。それらを通じて、僕なりの金光教(民衆宗教)理解の大風呂敷をできるだけ広げられれば、そのうちどの部分が研究の対象となりうるのかが見えて来るだろう。これも半年を区切って取り組もう。行橋詣での井手先生との対話が進捗の試金石となるだろう。

さらに必要なのは、語学である。今後の研究環境で実際にどのくらい語学力が問われるかはわからない。しかしこの点で可能性を狭めたくないというのもあるし、研究分野がきわめて日本的であることからいっても、論理的思索力を維持するために語学をやることは不可欠だろう。今は、英文では、金光教浄土真宗の一般書や批評を読んでいる程度だが、手元の興味ある学問分野の英書にはできるだけ多く手をつけたい。

自分に欠けているのは、ICTへの適応力だ。これは本来仕事上で身に着けておくべき分野であるはずだが、愚痴を言っても仕方がない。身体レベルでの苦手意識があるが、現代的な学習、研究環境に必要なレベルは今から泥縄で到達しようと思う。