大井川通信

大井川あたりの事ども

サークルあれこれ(その6 宗教勉強会)

昨年夏から、金光教の行橋教会に通い始めた。毎月中旬に一回と決めているが、月二回となるときもある。井手先生はその都度拝礼をしてくださるが、今のところ参拝が目的ではなく、金光教を中心とする宗教、思想について話をするのが目的となっている。

僕の方が、この一か月での勉強の成果や気づきについて話したいことがあるので、どうしてもかかり気味に語ってしまう。井手先生も最近の読書や出来事、また前回僕が紹介した本を読んでの感想などと話してくださる。慣例として、2時間程度の訪問となる。

この8か月、15回にわたる訪問で、ぼんやりとした金光教のイメージがいくらかはっきりしてきた。近頃おもいついた考えはこうだ。自分が今まで考えてきた哲学、思想、文学の問題や大井川歩きを始めとする実践の経験を、金光教を軸として集約させてまとめてみたい。それも雑文の集積という形ではなく、より客観的な論文というもので成果物を残してみたい。まずはそれが一体どんな風に可能かを手探りしてみること。

信仰はまだ始まってはいないが、研究を先行させるのだ。信仰はつかみ取りさえすれば、たとえ本が読めなくなっても、認知症になっても続けることはできるだろう。しかし、研究は、まだ気力と体力が充実しているうちしかできないだろう。

ところで、宗教の勉強といえば、村の賢人原田さんと10年に渡って続けている対話も、この範疇に収めることができる。気になって調べると原田さんと出会ったのは10年前の2013年11月14日だ。高校時代に家出をしてから禅寺に駆け込み、20代はカトリックの押田茂人神父の高森草庵で修行した経験をもち、今でも農業等の手仕事全般をこなしながら詩や書や絵もたしなむという破格の人物だ。

70歳を過ぎて条件が整い、若い頃からの構想である「詩を食べる店」を本格的に稼働させている。原田さんのいう詩は、他者の作品でなく自分の中から生まれる言葉(教え)なのだ。大井川歩きの途中での原田さんとの対話も、ならせば月に一回を超えているだろう。原田さんから得たものも大きいと思う。