大井川通信

大井川あたりの事ども

奇蹟を理解する

人生の中で「奇蹟」と思えることは、超自然的な現象というものより、得難い人との出会いだろう。誰でも友達を6人たどれば、全世界の人に行きつくという現象(スモールワールド現象、6次の隔たり)こそ、その奇蹟の客観的な表れである。

多くの人は、日常で同じような少数の人と関わる生活を送っている。少人数の知人をたどると世界に行きつくのが不可思議なのは、普段の暮らしのあり様とのギャップがあるからだ。

東浩紀の『観光客の哲学』で教えられたのは、日常的な生活圏を破りランダムに外に飛び出す人がごく少数いるだけで、飛躍的に人間関係が広がり「6次の隔たり」を実現してしまうということだった。数学的な理論モデルでそれは説明できることなのだという。

これは個人に即していえば、日常世界から外に向けて「一歩踏み出す」ことが、思わぬ人との出会いを通じて思いがけない世界を開いていく、ということになるだろう。これは自分の体験からも納得できることだ。

僕自身は、引っ込み思案で出不精でめんどくさがりの人間だ。それでも、人生の要所で思わず外に足を踏み出してしまった経験がある。それが今の自分を作っている。

たとえば、大学三年の四月に、法学部の大切な必修の講義をさぼって、単位にもならない今村仁司先生の社会思想の講義に参加してみたこと。翌年には、先生に頼み込んで勤務校でのゼミに一年間参加させてもらったこと。この経験がエンジンとなって、その後の長いサラリーマン生活のなかで本を読み続けることができたのだと思う。

西欧思想の権威である今村先生は、後年浄土真宗系の大学からの講演依頼を通じて清沢満之を知り、その研究にのめり込む。先生が清沢関連本を何冊も出版し、岩波の新全集の編集にもかかわったことに驚かされて、僕も清沢満之を読むようになった。

ある時新聞の情報欄で、市内で浄土真宗の学者の講演会があることを知る。清沢を読む参考になればと会場に出向くが見つからず、参加できたのが翌年の会で、そこで羽田信生先生の講義を聞いた。アメリカで長年布教を行う羽田先生は、偶然にも清沢直系の求道者で、その後毎年のように教えを受けることになる。信仰と無縁の環境に育った僕は、清沢や羽田先生との出会いを通じて、はじめて宗教の問題に直面することになった。

ただし現実の浄土真宗の信仰のあり方にはなじめないし、教義にも疑問が残る。そんな時、長男の赴任先の近くの金光教本部に寄り、また近所の教会を訪問して、金光教の教えとその雰囲気、関係者の立ち居振る舞いに親しみを覚える。しかし、それだけでは浄土真宗に匹敵するような金光教の本質に気づくことはなかっただろう。

偶然、県内に全国的な講師を務める井手先生がいるのを知って門をたたくが、金光教の取次の方法である対話を通じて、僕の抱く様々な疑問に示唆をいただいた。何より今ではほとんど忘れられた教学者である高橋一郎の本を紹介してもらい、教団内に徹底した哲学的思考の持ち主がいることを知ったのも大きかった。

つたない歩みだけれども、そもそも大学3年の4月に今村先生の講義にもぐらなければ、それ以降のことは起こり様もなかっただろう。今村先生の小著『アルチュセール』を事前に読んでみて講義を聞こうと決めたときのこと(井之頭公園のボートに乗って本を読んだ。何とも暗い青春!)はよく覚えているが、あれがすべての始まりだったのだ。

自分の大学内での一歩や、自分の生活圏の中での一歩に過ぎなくても、そこには驚くほどぜいたくな師との出会いが待っていた。今村さんのような一級の思考者や羽田先生のような一級の求道者との出会いは単なる偶然以上のものにも思える。しかも二人には清沢満之という共通項がある。さらに井手先生から紹介された高橋一郎は、清沢の弟子である曽我量深から親しく教えを受けた人だ。

ここまでくると、数式で説明のつく範囲を超えている気もする。これを超越者からの「おかげ」「差し向け」「めぐみ」という比喩でとらえたとしてもごく自然なことだろう。ただしあくまでそれは(外へと誘い出されて)「一歩踏み出す」ことから生じた事態なのだ。