大井川通信

大井川あたりの事ども

『在床懺悔録』 清沢満之 1895

清沢満之が一般の読書界に広く知られるようになったのは中央公論社の日本の名著シリーズの第43巻(1970)で鈴木大拙とともにとりあげられたのがきっかけだと聞いているが、そのペーパーバックス版(1984)を僕は手元に持っている。

ぱらぱらとながめていて、タイトルの論文が目に留まった。『宗教哲学骸骨』出版の3年後、32歳の清沢が結核のため教職を辞して転地療養中に執筆したものだ。僕の自己流の哲学と宗教の勉強において、清沢満之浄土真宗はやはり大切な手掛かりだ。泥縄式にゆっくりとではあれ読みかつ考えていきたい。

この論文は、浄土真宗の教学上の23個の問題に対して、初学者の問いに答えるように簡潔に回答しているもので、(清沢にしては珍しく)正統的な教学にそって自分の思考を展開している文章である。大無量寿経の経典や親鸞の著作を引用して解説するもので、以前の僕だったら手に負えないと投げ出すところだが、昨年来「近代教学」の論点に関心をもったために、なんとか読み通すことができた。現代語訳であり、丁寧な注がついているのもありがたかった。

ところで、この論文での清沢の理解は、「信心の利益」として現世での「正定聚(しょうじょうじゅ)、不退転」と来世における「滅度、往生」の二段階を想定しており、形式的には宗派の正統的な理解と同様であるように思える。

ただ、清沢の議論は、「臨終往生」か「現世往生」かを経典や親鸞の著作の解釈で決着をつけようとするスコラ的なものではない。あくまで随所に自分の有限・無限論を展開して、その真正なロジックを頼りに、事の正否を判断しようという姿勢に徹している。経典の表面的な語句にこだわるなとさえ言う。

有限が無限との関係(主伴互具の関係・有機組織への転入)を会得できれば、それがすべてなのだが、現世ではそこからの後退はなくても不安定だ。それが確定するのが臨終においてということだ。二段階ではあるが、そこには質的に同一のものが刺し貫かれている。

近代教学を奉じる羽田先生が、第一段階を「往生」、第二段階を「往生の完成」とたとえて、しかし言葉の問題は重要ではないとおっしゃっていたが、それこそ清沢の理解と近いもののように思える。

 

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