大井川通信

大井川あたりの事ども

『浄土真宗とは何か』 金子大栄 2021

清沢満之(1863-1903)から直接教えを受けて、真宗大谷派では曽我量深(1875-1971)につぐ近代教学の代表選手でもある金子大栄(1881-1976)の本を読む。1966年の『真宗入門』を文庫本化したもの。

こうしてみると、両雄とも大変な長生きだ。師匠の清沢の倍以上の時間を生きている。基本的にこの世を苦のマイナス価値においてみる真宗において、この世の滞在期間が長いことはけして良いことではないのだろう。

金子は、真宗の教えは単純であると述べるが、そこにいたる言説はのらりくらりとしていて、わかりやすいものではない。この点で単純なことを、端的に単純なものとして力強く語り、若くしてこの世を去った清沢とは全く異なった印象を受ける。

近頃、清沢先生がますますえらく見えるともいうが、本心なのか皮肉なのかがよくわからない。人を煙にまくような話しぶりだ。

80代半ばでの著書だから、自分の実感を平明に語っている部分が多く、聞くべきところが多いのも事実だ。しかし、宗門内外の様々な経典や著作についての議論を背景にしているので、その個々の平明さがうまくつながるわけではないのだ。こういうものでしょう、という断言命題をバラバラに述べていき、自分だけで納得している感じ。見方によっては、きわめて不誠実な態度に思えるし、その不誠実さに開き直っているようでもある。

僕の最近のにわか勉強では、金子大栄は、大谷派の近代教学の流れの中では、死後往生を肯定している論客ということを知ったが、たしかにそのことにこだわった言い回しが要所ででてくるのがわかる。

「浄土の教えというかぎりでは、その浄土は必ず彼岸の世界でなくてはならない。そして、人間の生をつくしてそこへ往くのであるということでなくてはなりません」

浄土教は人生に絶望しながら、なお断念することができないところに、開かれてくる教えだといえます。人生を断念しきることのできない心に、本願がひらかれて、その仏の願いとしての浄土の世界を、私たちは願っていくのです」

「別に遠いところに浄土を求める必要がないのではないかという意見が、知識人、文化人といわれる人たちにありがちな考え方のようです。浄土の教えが来世のさとりであることがどうしても気に入らない。結局、念仏申す身になれば、阿弥陀仏が本当の自分であることがわかる。したがって念仏を称えれば、この世は浄土であるということになるのだといおうとするのです」「それもわからないことではありません。だけど何かそこにいくと、少しはずれた、はなされたという感じがします。どこか理屈になってきたようです。実際に患い悩みをもっている我われ人間にとっては、そのような観念は何の役にも立たないものです」

ここが肝心なところだろう。師匠である清沢にも同門の曽我にも弓を引いているところだからだ。

僕の考えをいおう。最晩年まで人々の尊敬を得て、この世の中の要職を歴任し、講演や著作活動を行う、いわば充実した恵まれた人生を歩んでいた金子大栄が、「人生の絶望・断念」を語っても、むしろその方が「観念」であり、教義上の約束事であるように思えてしまう。

一方、この世が浄土であるという思い、あるいはこの世が浄土であってほしいという願いは、知識人がでっち上げた観念というより、ふつうに生活する人間の根底にあるものではないか。

江戸末期に生まれた民衆宗教が、既成教団や因習による抑圧から解放したものこそ、人生の断念ではなく、生活に根差した喜びの感覚だったのだと思う。