大井川通信

大井川あたりの事ども

『水中の哲学者たち』 永井玲衣 2021

読書会の課題図書だが、三分の一強読んだところで挫折してしまった。拒絶反応が起きてしまったのだ。普通考えたら、哲学研究者が哲学対話に関わりながら考えたことを、実体験に即して読みやすい文章とわかりやすい比喩で書いている素直な本だから、スラスラと読めてしかるべき本なのだと思う。

こういう本を心理的抵抗感から読み進められなくなるのは、はっきり僕の弱点といっていい。もっと言葉や本への咀嚼力や消化吸収力が強くなってもらわなくては困るのだ。

とはいえ、読書会の参加を考えると、単なる悪口ではない、この本への自分なりの感想を穏当な形で作っておく必要がある。たかが本の一冊の読みくらいで、場の空気を気まずくしたりしてはいけない。

おそらくこの本は、哲学や哲学対話がこうあってほしいという著者の願いによってつづられた祈りの文なのだろうと思う。だから、とても口当たりのいい甘酸っぱい言葉で、器用に描かれている。哲学や哲学対話(この二つはずいぶん違うと思うけれども、著者は連続するものとして描いている)の真相(その限界や可能性、成立条件は何なのか等)をシビアに問う、つまり哲学する本ではないのだ。むしろ哲学対話をプロパガンダする本なのだと思う。

僕は、大学を卒業してから、40年間、社会の荒波の中で細々と対話と思考を続けてきた。この本が課題図書となっている読書会も30年のかかわりの歴史がある。その環境は概して過酷で、なぜこんなことが起るのだろう、あるいはなぜ自分がこんなことをしてしまうのだろうという(自分が考え対話する場所自体についての)自省をたえず迫られるような場所だった。

哲学対話では書物の中の有名哲学者の思考が実際に生きていることに感激するという研究者仲間のエピソードを紹介しているが、まるで社会を哲学のフィールドワークの場所(植民地?)のように扱っているのだ。一方で、先生は答えを知っているのでしょうと詰め寄る子どもに対して、それは誤解だと泣きそうになるというのは無理がある。正解はわからないかもしれないが、現にたくさんの解答の仕方は知っているし、その成果を手放そうとはしていないのだから。

福岡を四国だと思っていたという友達の言葉に著者は揺さぶられる。しかしこれは対話ではなく、完全な独り相撲だ。その友達は単にそのあたりの地理に関心がなく無知だっただけだ。一方的に無知を面白がられた相手にとって、それは考えることのきっかけにならないだろう。

あるいは、ある哲学対話の帰り道、道端の木が切られて悲しかったという参加者のつぶやきに、それこそが哲学対話が扱うべき言葉であると著者は感激する。しかし、何かが哲学であり哲学でないかが重大事であるのは、著者の側の都合にすぎない。

肝心なのは、思いを吐き出させることではなくて、そこから芽生える思考を励ますことだ。それをするには、著者の考える哲学はあまりに内向きだ。椎名誠の小説を教材に「切り株」について考えさせる国語の授業もあるし、僕自身、大井川歩きの中で鎮守の杜の神木の伐採という重いテーマをかかえて考えあぐねている。

以上が、三分の一の感想なのだが、僕は果たして読書会に行くべきなのだろうか・・・と自問自答しつつ参加したが、以上のような論点を踏まえてよい議論ができたと思う。