大井川通信

大井川あたりの事ども

読書会であらためて考えたこと

読書会は、社会人になって以降、僕が物事を考える上での主戦場だった。とてもゆっくりと時間をかけてだけれども、大切な学びがあった。

僕は、長く哲学、批評の本をあつかう読書会に参加してきたが、そこで痛感してきたのは、とにかく話がかみ合わない、ということだった。特別に訓練された人間同士の特殊な場所でない限り、日本人は議論というものができない、と考えざるをえなかった。

思想系の書物の中核をなす概念というものが、それぞれの生活や身体に根付いていないために、上空に漂う知識として浮ついたものとなり、その共通了解を前提としてなされるべき議論がふらついて、あいまいなものになってしまうのだ。

僕はいつのまにか、手品やゲームなどを使って、議論を思い切り単純化したり可視化したりする「読書会芸人」を自認するようになったが、それも通常の装備では議論が空転してしまうことを味わってきたからだ。

一方、近年、小説をあつかう読書会に参加して、ぴたりと話がかみあうことに驚いた。摩訶不思議な気がしたが、考えてみれば理由は明確だ。小説は、エピソードのかたまりであり、小説の読みは、そのエピソードの集合体にどのような整理整頓を加えるかという問題になる。

エピソードは、僕たちの生活の延長線上で理解できるものだから、とりあえず共通了解が成立しており、それをどうつなげて解釈すべきかの議論は自然にかみあうことになる。

今回の泉鏡花の『高野聖』の読書会では、そのことをいっそう納得できる場面があった。山中の妖婦は何者なのか、という課題に対して、作中の印象的な強いエピソードに着目するとその答えは自明であるが、大小のエピソード全体に照らしてみると、その答えでは矛盾が生じてしまう。そこで僕は、作中のすべてのエピソードと矛盾しない回答をつくって提出することにした。

これは、エピソードを作者の主張や概念と置き換えれば、思想系の読書でもよく使う手法だ。しかし思想書の読書会では、どんなに優れた読みを提出しても、参加者を説得することはできない。どちらが書物の全体を深くとらえた読みなのか検討されることなく、みんな違ってみんないい的な収束の仕方になってしまう。

ところが、今回は、司会をのぞいた僕以外の参加者二人(20代と40代)ともが、初めは「強めのエピソードに基づく自明な答え」の方を採用していたものの、最終的には、僕の出した「全体に矛盾しない答え」の方に軍配をあげてくれたのだ。読みの優劣を決める必要などない場なのに、まったく自主的に「より普遍的な読み」を選択したわけである。(ただし、この読みは作者があらかじめ構想していた正解などではなく、作者が書きたいものを書いているうちに偶然生じてしまった矛盾をあとから取り繕ったにすぎないだろう、まして鏡花なら)

これは思想系読書会ではほとんどありえない光景だ。日本人はエピソードをもとにした議論なら得意で、このためにある時期まで、概念や理論のみを扱う学者よりも小説のエピソードをもとに思考する文芸評論家が思想家として信頼を得ていたわけである。小林秀雄吉本隆明柄谷行人らのように。

しかし、ここまでは実はすでに考えてきたところだ。ただ、この典型的なケースに直面して、さらに一歩思考をすすめたいと思う。そのとき参照したいのが、東浩紀の最近の議論になるのだが、それはまた後日展開することにしよう。