大井川通信

大井川あたりの事ども

『シッダールタ』と唯幻論

読書会のもう一つの課題は、小説『シッダールタ』となんだか似ている(あるいは、ぜひ比較してみたくなる)別の作品をジャンル不問で連想してください、というもの。

この課題は、素人の読書会の課題としてとても優れていると思った。専門家同士の読みであれば、参照される知識や枠組みは、狭いジャンルの中で共有されたものになるだろうし、またそうでなければ厳密で生産的な議論はできないだろう。

素人が集まる読書会で大切なのは、各人が何を比較対象としてその作品を読んだのか、その手の内を明かすことだ。そうすれば会を重ねるごとに、各人の読みへの理解が深まり、読み手への信頼も高まって、結果的に実りのある議論ができるようになるはずだ。

課題に戻ると、僕がこの小説を読みながら、無意識に参照していたのは岸田秀の唯幻論だった。宗教に関する議論をするときには、僕はいつでも唯幻論の視点をなぞっているような気がする。それどころか、いわゆる思想書哲学書の中で、生活者が時間を割いてぜひ読む価値があるのは、岸田唯幻論で、他にはないとさえ思っている。

それは、人間を本能の壊れた動物と定義する唯幻論が、人間がやむを得ず生み出す文化とどう付き合い、自然にどうかかわるべきかを端的に教えてくれるからだ。

まず、シッダールタたちは、苦悩から「統一」や「完成」に向かおうとしている。それが「悟り」だ。しかし、そういう思いがなぜ生じるかは書かれていない。

唯幻論によれば、それは人間が本能の壊れた動物だからだ、ということになる。壊れた本能では、自然環境に適応して生存していくことができない。そこで「疑似(偽物の)本能」として「自我」や「文化」などを作りだすことになる。しかしそれらは偽物や代替物であるから常に不安定で、見果てぬ夢としての「統一」や「調和」を求めざるをえないのだ。

かつての釈迦の時代は、不安定さをがちがちの「共同幻想」によって封じ込めて、宇宙の調和の大風呂敷をひろげる戦略がとれたが、不安定や不均衡(成長)を原理とする資本主義社会に生きる現代人には、むしろ不安定と流動の渦中に「調和」を求める戦略が必要となってくる。その時歯止めのモデルとなるのは、我々の身近にもある自然のありようだろう。

俗事に身を投げつつ、川の流れを自らのモデルとするシッダールタの悟りが我々の共感を得るのはこのためだ。しかし、シッダールタには、「調和」「統一」への期待の幻想が尻尾の様に残っている。流動の渦中に安定のポーズを決めるのは、相当のアクロバットだろう。たしかにこのアクロバットは感動的だが、肝心なのは、それが我々に本当に必要なことなのかということだ。