大井川通信

大井川あたりの事ども

『身体論集成』 市川浩(中村雄二郎編) 2001

硬派な哲学論文集だが、面白く読めた。哲学者の細かい議論についていく能力も気力も関心も自分にはもう残っていないと思っていたが、この本は違った。

僕の学生時代から、市川浩(1931-2002)の身体論は著名で何冊かの本はもっているが、例によってしっかり読んだりはしていない。80年代の終わりに雑誌の創刊記念講演会で、柄谷らといっしょに講演を聞いたことはあるが、とても地味な印象だった。

岩波現代文庫のこの論集を手に取ったのは、この夏に「舞踏」について考える機会があってその参考資料として利用したのだ。とても役に立ったが、読み切ることができずに少しずつ読み継いで、ようやく読了した。

この手の本は、一度中断すると再び読み始めるのは難しい。ところがこの本はたとえ論文の途中から読み直しても、理解可能で面白く読み継げることに驚いた。それは市川浩の文章が、学説や論理を扱うということ以上に、事実そのものにつきしたがって丁寧に展開されているからだろう。

それだけでなく、身体を根底にした事象を分析する本書の議論は、たとえどのような切り口からのものであっても、自ら身体として生きる僕たちにとって関心の外にあるというはないのだ。大井川歩きの大小の主題にも有益な示唆を与えてくれる。

たとえば、僕は今、民衆宗教とくに黒住教の考え方に関心を持っているが、市川身体論によればそれらは、近代思想の「脱中心化」による量的座標系ではなく、天や神などを超特異点を用いた「超中心化」による神話的空間の成立として理解される。

神話的空間においては、身を原点とする座標系は「向こう」にある原点に照らし出されることによって、あるいは原点の非在化によって非中心化されて、神話的質的座標系のうちに包み込まれる。そして、身と「向こう」の原点との間には、宇宙論的な象徴法(互いが互いの比喩となる)によって超越への道が開かれるのだ。

つまり、黒住教の次のような思想は、特異な迷妄ではなくて、身体の本然に根差した思考の一つのタイプであることがわかる。

「我というそのいち物をすてぬればひろき世界はわが身なるらん」(黒住宗忠)