大井川通信

大井川あたりの事ども

『日本の近代仏教』 末木文美士 2022

2017年に刊行された『思想としての近代仏教』を再編集して文庫化(講談社学術文庫)したもの。

清沢満之倉田百三、田中智学、鈴木大拙家永三郎等の思想や学説のポイントを絞って平易に解説することで、個々の仏教(学)者たちが何を問題とし、どのように時代とかかわったのかの輪郭が浮き彫りになるような記述となっている。彼らの著作をぜひ手に取ってみたいとおもわせるだけの筆力があった。ややわかりやすくまとめ過ぎているような印象を受けたが、そうでなければ素人が読了することは難しかっただろう。

ただ、何より刺激的だったのは、最後の回して読んだ序章の「伝統と近代」である。ここでは海外における近代仏教の研究(この紹介自体新鮮だった)と対比させることで、日本の近代仏教のありようを見事に抉り出している。

乱暴でてきとうな要約になってしまうだろうが、自分の心に残ったところを書き出してみよう。この本の論理の魅力は伝わるかもしれない。

近代に入って宗教の再生は、教祖という原点に回帰して普遍的な内容をつかみなおすことによって果たされた。仏教においても例外ではないのだが、「大乗仏教」を名乗る日本では特別な問題を生じる。釈迦にまで戻ると、「大乗非仏説論」が問題とする釈迦以後の大乗仏典の成立という難点が明らかになる。このため、日本の各宗派は、釈迦ではなく宗祖にさかのぼるという戦略を取った。

「鎌倉新仏教中心史観」は、この文脈から出てきたのだ。そこから宗祖の教えを近代的な思想の領域で勝負できるものにする努力が、前述のエリート仏教者たちによって払われることになる。

一方、近代仏教の本体は、そうした先端的な思想にではなく、葬式仏教として制度化され実践される生活の領域にあった。葬式仏教とは決して封建時代の遺制や残滓というものではない。近代日本の天皇制と家父長制は祖先崇拝という装置によって支えられている。天皇家の場合はそれは国家神道が務めるのだが、国民の祖先崇拝(とそれによる家制度の再生産)は近代仏教によって担われたのだ。