大井川通信

大井川あたりの事ども

『ゆかいな仏教』 橋爪大三郎・大澤真幸 2013

ちょうど10年前に読みかけにした本。今回再読してよかった。

橋爪大三郎(1948-)と大澤真幸(1958-)は僕らの世代にとって社会学の師匠とエースであり、思想家としておおいに魅了された時期もあったのだが、このところの啓蒙書の類ははっきりいってつまらなく、新刊が出ても手に取ることもなくなっていた。

ただしこの本はとても面白かった。西欧の思想を扱う時は、ベテラン思想家の手慣れた手つきが鼻につくのだが、仏教という巨大な異物を扱う時にはそうはいかない。仏教研究の実績がある橋爪が先生役、大澤が門外漢の生徒役、という一応のノリで対談は進むのだが、正解のない領域で仮説を繰り出す緊張感のようなものがあって、読みごたえがあった。

両者のユダヤ・キリスト・イスラム教及び西欧思想(人文・社会・自然科学に及ぶ)と東洋思想に関する広範な知識が、仏教を外側から、可能な限り客観的にとらえることを可能にしている。仏教の本質が、見たことがないほどシンプルにとらえられていくのだ。仏教学者や信仰者にはとてもできない本質の切り出し方だと思う。

そうして、初期仏教から大乗へ、浄土教密教へという流れが、これまでにないような明確さでとらえられる。これには、僕にも目からうろこが落ちる思いだった。浄土真宗のバイアスがかかった今までの仏教理解の狭さを思い知らされた気がする。

それだけでなく、僕は身近に真宗のまじめな信仰者の姿を見ているので、また別の感慨もあった。彼らが一部の経典や教学書とにらめっこして理解に四苦八苦しているのは、そこに仏教の思想の広範な流れが畳み込まれているためだ。

インドという異文化の地で生誕した異形の思想が長い時間をかけて様々な要請のもとに生み出されたアイデアと接ぎ木されることで、現在の仏教がある。いくら日本化された部分があるといっても根底にあるのは、異質な思想のアマルガムだ。これをそのまま現代人の頭で理解し、生活実感の中に落とし込もうとするのは不可能事だろう。

それを信仰するというときに、どこかに自己欺瞞を生じてしまうのは仕方のないことなのだ。僕が漠然と感じていたことを、この本は明確に説明してくれるような気がする。

最後に雑多な感想を付け加えると、あらためて廣松哲学は、仏教思想の中核を占めるような部分を緻密に定式化したものなのだと感心した。感覚的な仏教書を読むより廣松哲学を学ぶほうが、よほど仏教の核心に近づけるのかもしれない。

浄土思想が仏教の中での一分派でしかないことは納得できたが、その流れの中でも清澤満之の理解が仏教の本質をはずしていないのはさすがだと思えた。この本の終盤の山場である華厳経をめぐる議論は、清澤哲学のシンプルな立論と呼応するものだ。