大井川通信

大井川あたりの事ども

『親鸞の仏教史観』 曽我量深 1935

高橋一郎師のエッセイを読むと、何度か曽我量深(1875-1971)のもとを訪ねている。曽我量深といえば、若くして清沢満之の弟子となり、浄土真宗の宗門ではとても尊敬されている碩学であることは、時々聞法の場に顔を出すくらいの僕でも知っているところだ。

現在新刊で入手できる一番読みやすそうな本を取り寄せて、読んでみた。読みにくい部分は多々あったが、なるほどこういう人なのか、という納得感があった。その第一印象をメモして置こう。

浄土真宗は大きな魅力をもっているが、それが依拠する大乗仏典は釈迦入滅後600年以上たって成立したもので、客観的に釈迦の説いたものではない(大乗非仏説論)と実証されている。これはいかにも分が悪い。仏教ということでは傍流にすぎないものになってしまう。

曽我量深は、仏教とは、阿弥陀如来の本願の歴史、南無阿弥陀仏という名号の歴史であることを確信している。そういう信仰を生きているのだから当然だ。大乗仏典を非仏説とみるような歴史観は、唯物史観だとこき下ろす。

釈迦「以前」にすでに名号と本願の歴史(これが仏教の大本で仏教そのものだ)があって、釈迦もその歴史を受けて生み出された存在にすぎない。釈迦の教え自体はまだ十分なものでない。本願の歴史はその後も有名無名の修行者の手によって発展し、ようやく文字の形をとったのが大無量寿経なのだ。

自身の信仰体験の絶対性をベースに、既存の概念の体系や歴史的事実に対して自由自在に揺さぶりをかける。その語りは人をとまどわせたり、幻惑させたりするのだろう。真宗の信仰を持つ人にとっては、留飲が下がる思いがするかもしれない。

ただ、本願や名号を「普遍」として信仰するのなら、それは超歴史的なものでなければならないから、曽我量深のように考えるのはむしろ当然だ。そのシンプルな真実を清沢満之のように直截に語らず、膨大な仏教の知識を背景にアクロバティックに語るのが、彼のやり方なのだろう。

最終章では、仏教や真宗の専門用語をたたみ重ねるようにして、講演はクライマックスを迎える。話し手と聞き手とがともども法悦の境に入っていることが伺えるが、僕のような部外者はまったく蚊帳の外となる。