大井川通信

大井川あたりの事ども

行橋詣で

朝から、行橋の井手師を訪ねる。本当は月に一回のつもりだったが、紹介していただいた高橋一郎師の二著があまりによかったので、その報告がしたかったのだ。

昔を思い出しながら炎天下の市街地を歩き、教会に着いたのは10時半くらいだった。井手師は「朋あり遠方より来る」とつぶやきながら、いつもの取次の席ではなく、広前のパイプ椅子をすすめていただく。初めて向き合うように座って話をはじめる。

勉強したての教学を話題にすると、僕が読んだ松井雄飛太郎氏をご存じだったのは驚いた。井手師も暁烏敏への関心から、師匠の清沢満之の本を読んだことがあるという。

高橋一郎師の本は、根底から物事を疑い、徹底的に抽象的であるにもかかわらず、最後には「実意丁寧な」生き方へと促す力をもっている。清澤満之も有限・無限の二元論によるきわめて普遍的な議論を行いながら、それが如来(無限)と向き合う生き方へと強く誘っているという共通点がある、と未熟な私見をお話しする。井手師も若き日に、『金光教の本質について』の第一章が「反省」から始まることに驚いたそうだ。

高橋一郎師の『求眞雑記』を含む金光教関連の古書のセットを買った中に、金光教のラジオ番組のストーリーを記録した小冊子があって、その中に井手師の文章があった。20代の井手師が初めて発表した文章で、当時としてはあまり触れられない恋愛というテーマにあえて踏み込んだものだそうだ。こんな偶然もうれしい。

話題は、宗教学から差別の問題やコロナ体験、マルクスのことまで及ぶ。井手師は、あらゆることに柔軟で偏りのなく丁寧な言葉を話される。長年の信仰と教会での取次のたまものだろう。同時に読書と思索を大切にしてこられたことがうかがわれる。

何十年も広前で、他者の言葉に耳を傾け、コミュニケーションをとり、それを超越者への祈りにつなげるということは、いったいどんな体験なのだろう。恥ずかしながら、僕は他者の幸せを心をこめて(ばくぜんと希望することはあっても)願ったという経験を持たない。

これから月に一度くらい勉強に来させてほしいとお願いして、了解を得る。玄関を出ると、井手師の柏手の音が聞こえる。僕も教会の下で頭を下げて、帰途につく。