『金光教学』第5号所収の論文。著者は教学研究所研究員の肩書。専門的な論文で本来太刀打ちできるものではないが、自分が考えているテーマに重なるので、感想をメモしておこう。
・昭和30年代には、金光教も研究誌を立ち上げているし、掲載論文の内容にも勢いがある。教団のみならず、様々な社会運動など「思想」や「理念」が力を持った時代だったのだろう。創刊からのすべての論文がネットで読めるのはありがたい。
・今日の人間像を「人間疎外」(自己と社会との分裂)と押えるのは当時の時代思潮を反映しており、そこからの回復(本来性/あいよかけよ性)を宗教の役割とする考えはやや古びて見える。
・著者は、曽我量深や安田理深を参照しながら浄土真宗をコンパクトにまとめようとするが、これがわかりにくい。教学研究の立場で、矛盾に満ちた概念の体系を間違いなく整理しようとするからこうなるのだろう。これを読むと、有限と無限の二つの概念のみで押し切る清沢満之の構想の偉大さと天才ぶりが際立つ気がする。
・著者は、二つの宗教の「信心構造」の比較を図示するが、中核のコンセプトとして「南無阿弥陀仏」と「生神金光大神」とを同列に置いていることには違和感がある。信心の実際や内実から離れて、前述のように概念体系だけを比較しているためだろう。
・真宗の信仰の内実を見てみると、親鸞聖人を始めとする「善知識」の存在が極めて大きいことがわかるが、著者の比較図からは外されている。「生神金光大神」(と取次者)と同位に置かれるべきは、「善知識」だろう。と同時に、「取次」に対応するのは「念仏」ではなく前知識からの「聞法」となる。
・それでは、真宗の信者が日々となえ信仰のよりどころとしている「南無阿弥陀仏」と対応するものは何か。著者が比較図からは外している「天地書附」に他ならないだろう。この比較ができないのは不思議だが、「天地書附」が当時の教学上重視されておらず、南無阿弥陀仏と同位に置きにくかったのかもしれない。
・著者は、それぞれの教えにおける「救済」の違いに言及している。かなり難解な言い回しだが、ポイントだけ言うとこうなるだろう。真宗においては、現実社会の在り方や衆生の苦悩は、救済と共に拭い去られる。一方、金光教では、現実社会の条件や氏子の苦悩は取り払われることなく、その只中で生きていく道が示される。
※その後の勉強で、これがかなり軽率な第一印象だというのが了解できたが、勉強の途中経過の報告だからこのままにしておきます。