大井川通信

大井川あたりの事ども

『危機の時代に生きる力を』 荒木美智雄 2010

偶然手に取った講談社学術文庫の新刊『宗教の創造力』(2001文庫化、底本1987)で宗教学者荒木美智雄(1938-2008)のことを知ったのは、もう20年前のことだ。巻頭の論文で、金光教の教祖金光大神を高く評価しているのが目を引いて、僕が金光教に関心をもつきっかけとなった。

当時は、90年代半ばのオウム事件の余韻が冷めやらない時期で、職場の同僚が自分の家の宗教が金光教であり、それを交際相手に告げるかどうかを悩んでいるときに、この本を示して金光教は間違いのない宗教であると勇気づけた記憶がある。

今回、『宗教の創造力』の該当部分を読み返してみて、論旨の力強さには感心しつつも、金光教について新しく何かわかったという気がしなかった。それで同じ著者の金光教徒社から出版されている講演集を取り寄せてみたのだ。

読んで、少し拍子抜けしてしまったところがある。著者は京都大学哲学科で学び、シカゴ大学で宗教学の博士号をとった錚々たる経歴の宗教学者なのだが、京都の金光教の教会に生まれ、祖父、父からのしっかりした信仰を継いでいる人だったのだ。そういう出自なら、ひいき目で金光教を評価するのは当然という気がしたのだ。

金光教の関係者に向けて語られた講演は、教団内部の用語が多く使われ、部外者にはかえってわかりにくい。ただ、信仰の内側にいる当事者ならではの言葉の熱と重みを味わえたのは収穫だった。著者も繰り返し言っているように、人を引きつけるのは、理屈ではなく信仰の実践という事実そのものなのだろう。

読み進めるうちに、著者も人生の節々で自分の信仰と向き合い、それを新たにつかみ直してきたことがわかってくる。けして平穏な信仰生活や学究生活というわけではなかったのだ。

教祖は朝から晩まで一日も欠かさず「広前」に座って、氏子の「難儀」について話を交し、神への取次を行う。氏子に対する平等な扱いは、海外からの来賓であっても変わらない。教祖の衣装は、駆け出しの修行者のものと同じものだ。この教祖の姿勢をモデルとして各地の教会でも取次が行われるのだ。こうした徹底して無私で平等で圧倒的な他者の救済への祈りの連鎖が、金光教の信仰の核にあるものなのだろう。

ただし、これは金光教の入門書ではない。著者が外国人向けに金光教について英語で説明したものを、ぜひ読んでみたいと思った。