大井川通信

大井川あたりの事ども

詩集『亡羊記』(村野四郎 1959)を読む

今日は、亡羊忌。詩人村野四郎(1901-1975)の亡くなった日だ。

ちょうど手元には、忌日の命名の由来である詩集『亡羊記』の翻訳書がある。友人の英文学者高野さんが翻訳したもので、見開きの左右の頁に、日本語の原詩と翻訳が並んでいるが、日本語も横書きでしかも行末がそろえられて行頭がデコボコだ。このいわば暴力的な変形のために、ずいぶん新鮮な気持ちでなじみの詩を読むことができた。

気になった詩は、高野さんの翻訳と読み比べて味わってみる。これも楽しい。村野四郎の詩集はどれも好きで、先日全詩集をネットで見つけて買ってしまったほどだが、このブログに今まで引用した村野の詩は、3篇とも『亡羊記』所収の作品であることに気づく。

やはり有名な「鹿」が圧倒的によい。引用済みの「塀のむこう」と「芭蕉のモチーフ」も好きな詩だ。ほかに「橋」「死」「美しい四月」に付箋をつけた。

ここでは、「死」を引用してみよう。簡潔で動かしがたい描写と比喩。鮮やかな視点の転換と飛躍。こうしたものが、相変わらず僕の好みだ。そして、イメージの強度とその振動。

 

追われどおしに 追われてきた/蹄も割れ 眼球も乾き/空と森が遠くに後退しはじめた

わたしの屍体が/さみしい茨のなかにころがっていると/やがて 誰かが近づいてきた/愛と恐怖の面もちで/血に濡れている獲物を/そっと見とどけきた猟人のように/魂が わたしを探しに来た (村野四郎「死」)

 

引用するまでは、単なる逃亡者の死とその魂の関係をショッキングに描いているものと思っていた。ただ「蹄(ひずめ)」が気になる。すると、この作品は名作「鹿」の続きとして読めることにも気づいた。獲物と漁師の具体的なイメージの上に、(本来重なるはずのない)生身の人間と魂の関係が重ねられているのだ。

 

 

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