大井川通信

大井川あたりの事ども

『生き神の思想史』 小沢浩 1988

2010年に岩波人文書セレクションとして再刊されたもの。副題は「日本の近代化と民衆宗教」。小沢浩(こざわひろし   1937-)氏の本では、『国家神道と民衆宗教』がよくまとまってわかりやすく、僕が金光教に好感をもったのもこの本の記述の影響が大きい。

しかし、井手美知雄師に薦められなかったら、同じ著者のすでに新刊で手に入らないこの本をわざわざ読むことはなかったと思う。とても良い本だった。いや、すごい本だった。

これで高橋一郎師の二著に続いて、井手師に薦められた本は、たんに面白いということをこえて、僕の問題意識に切り込んできて対決を迫ってくるものが続いていることになる。

こんなことがあるだろうか、と思う。弟子の本当に欲するものを的確に指し示すことができるのは、理想的な師匠といっていいだろう。特定の宗教を信仰するというのは僕にとってなかなかハードルの高いことなのだが、この機会を逃しては、認識の場面でも生活態度の場面でも大きく飛躍をすることはできないだろうという気がする。

本に戻ると、研究書ばなれした魂のこもった本である。研究の枠組みから魂がはみ出してしまったような本である。今まで宗教研究者による研究をいくらか読んできたが、信仰当事者にとっての切実な問題に届いていない淡白な記述が多い。それらとはまったく異質の熱量だ。

「ある民衆宗教布教者のプロフィール」という副題がつけられた、金光大神の直弟子齋藤重右衛門の生涯を描いた章や、「戦争と信仰」と題された金光教信者の戦争体験を扱った章などは、宗教者の内面に深く踏み込んで緊張感に満ちている。教団幹部の高橋正雄の戦時中の軌跡をおった記述もよくその困難をとらえていて、彼らの著作や人生にもっと触れてみたいという思いをつのらせる。

教祖の思想や信仰の構造についても、教義を表面的に読んでいたのは気づくことの難しいポイントを抑えていて、その内面的理解に役立つような(むしろ不可欠と思えるような)分析がなされている。たとえば、「教祖の凡夫観は、謂うところの人間の存在拘束性、被造物性、有限性の認識にほかならず、その苦難もかかる人間の本性に根ざしたもの」という指摘は鋭い。

再読の過程で論点をひとつひとつじっくりつかみなおしていきたいと思う。そう思わせる本。