大井川通信

大井川あたりの事ども

行橋詣で(2023年10月)

前回からの3週間は、ばたばたしていて落ち着いて金光教に取り組むことができなかった。それで、宿題をやっていない生徒のような気持ちで行橋に向かう。

高橋一郎先生の『求真雑記』を読み返すと、心が落ち着いてくる。日豊線にのりかえると景色が一変するような気がして、それで気分もさっぱりした。玄界灘に近く住む僕にとって、周防灘の風物は身近な異郷だ。

『求真雑記』には、神からの取次や差向けの助けについていかに我々が無自覚であるか、それに感謝すべきだという指摘があった。安部本での周囲の反応の薄さを不満に思っていた僕も、自分自身がたいてい他者の苦労や好意に無頓着であることに気づかされる。

井手師にさっそくそんな話をしたが、献呈した安部本のていねいな感想を話していただく。『ブラウン氏』における安部さんの独特なスタンスに注目するなど読みは鋭い。

この間の、70代との対決、次男の手続き、読書会ラッシュ、ご近所トラブルなどの話を聞いていただく。それぞれ急所をついた言葉を返していただき話がはずむのだが、これが「御理解」というものなのだろう。

宗教の本質は、感謝、反省、奉仕だと井手師。なるほど。哲学書を読んでいると反省は実践できても、感謝、奉仕は頭の中でしか理解できない。祈りにはそれらを生活の中で打ち立てる役割があるのだろう。

友人たちに金光教の説明をするときに、教主が休みなく毎日広前に座って参拝者の区別なく取次を行っている事実に驚かれると説明するが、教団内部の人にとってはそれはごく当たり前のことのようだ。それをアピールに使わないのが金光教らしい。

教会は、ごみ溜めのような場所だからいろいろな悩みを吐き出してもらうのだけれども、自分では受け止めきれないので神様にお任せするのだ、と井手師。大井川歩きで気づいた、村の中の様々な神仏のホコラの機能と同じだと納得する。村人は、そこで様々な不満や緊張を村外へと放出するのだ。

自分が祈りと無縁の家庭に育ったので、祈りの回復がテーマになっていたという話の流れで、井手師の前で高村光太郎の「秋の祈」を暗唱する。井手師は、近年山本周五郎を読み続けているという。入門書を聞くと『さぶ』でしょうと。こんど読んでみよう。