大井川通信

大井川あたりの事ども

行橋詣で(2024年5月)

黄金週間後半の最初の日に「感謝」の銘柄の焼酎を携えて行橋を訪問する。

前回、研究や論文化について大言壮語してしまったので、この間の経緯を報告することになる。どうあげ先生やゴロリ先生からのアドバイスを受けて、やはり自分が誰かに助けてもらいたい、教えてもらいたいという甘い期待があったことを気づかされたという話をした。自分に書く(考える)力とそれによって実際に書いたものがないことには、出発点にも立てないだろう。

こういう報告を夢中になって話しているときにはわからなかったが、あとから振り返ると、井手先生が僕の方向性について実に見事な理解を示してくれていたことに気づく。あなたが書くものは、いかに自分が現在の場所にたどりついたかの、自分の精神史をあつかうことになるのではないか。客観的な研究や学問とは違って、どういう形で書くのかは難しいだろう。

さらに、いろいろ踏み込んでお話するうちに、取次についてこんな話をすることができた。神に取次ぐというといかにも神秘的で現代人には受け入れがたいことのように思われるが、金光教では、天地金乃神と話が出来るのは生神金光大神だけであり、取次者は金光大神と話すことができればいい。金光大神は教典にまとめられた多くの言葉を残しているから、それを読み込むことで教えを血肉化することができるし、もっと直接には取次者のモデルである親先生(あるいは金光様)との交流によって、内なる金光大神をはぐくむことができる。僕のこのような「推測」について、井手先生は大筋で受け入れて頂いたように思えた。

たまたま金光教徒社のホームページで見つけた福岡平尾教会の芳野教会長の講演冊子を差し上げる。亡くなられた芳野教会長は井手先生の岳父であることを聞いていたからだ。芳野教会長のこんなエピソードをお聞きする。ある時国東の教会を訪れる途中で、自動車で追突される事故に遭った。治療を受けながら、自己の相手方に対しても感謝の言葉をかけていたという。神様に自分の汚れを落としてもらうようにお願いしていたが、こうした形でおかげをいただいたと。若い井手先生は、そんな姿に及び難いものを感じたそうだ。

【その場ではお話しなかったが、こうした姿勢は、自分に都合の良い解釈でもやせ我慢でもないと思う。金神(天地金乃神)がもともと人間にとって恐ろしい神だったことが示すように、この世界の実相は人間にとってプラスでもマイナスでもありうるようなニュートラルなエネルギーにあふれている。しかし、個々の人間はこの世に誕生したという出発点に置いて、比類のない恵みを受けている。哲学者たちのいう「根源的贈与」や「命あっての物種(ものだね)」がそれである。金光大神は、この根底にある恵みを軸にして、天地金乃神(世界、自然、宇宙)のプラス面(善意)を受け止め、言葉化して氏子に届け、また氏子の願いを届けるというルートを体現する存在なのである。この善意の解釈装置を経ることで、すべての事象を「おかげ」として受け止めることが可能になるのだ。氏子とともに「あいよかけよ」で立ちゆく神とは、金光大神が体現する担天地金乃神の半面(プラス面)なのだと思う】

家族の問題の途中経過も報告。年末のもめごとからの関係改善など夫婦関係の具体的なことを、まだお話していなかったことに気づく。自虐ネタは大好きなのだが、先生の前ではさすがに恰好をつけていたのだろう。