大井川通信

大井川あたりの事ども

通勤電車で金の光がひらめく(収束編)

金光教では、教祖金光大神のふるまいは、天地の神(天地金乃神)と人間(氏子)との間を取り次いで、氏子を助けることにある。この取次は、氏子の困難(難儀)に応じて、個別具体的に行われる。

信者たちは、教祖金光大神をモデルとして、氏子を天地金乃神へと取次・助けることを目指すゲームを実施しているのだ。これは実際に教会(出社)をもつかどうかにかかわらない。人間の困難が無限にあるのに応じて、このゲームにも終わりはない。

金光教の本部の教会では、今も教祖を継いだ「金光様」が365日取次を続けている。「金光様」をモデルとする全国の教会も、そこに通う氏子たちも基本的に同じふるまいを行っている。

仏教のゲームの目標が、有限と無限との距離を認識の力で一気に無化する「悟り」を目指すのだとしたら、金光教のゲームは、有限と無限との間のほころびをそのつど具体的に取り繕い取り結ぶ「取次」を目標とする。

例えば、人間が病気に冒される。生活態度や気持ちの問題で解決のつく範囲では、その嘆きを聞いたりアドバイスしたりすることで苦しみを緩和させる(「おかげ」を受ける)ことができる。しかしより根本的には、他の生き物と違い、人間だけが病や死を恐れる気持ちに焦点を絞り、取次・理解(話し合い)を通じて天地の道理との連絡をつける必要があり、その納得が「おかげ」になるだろう。

金光教の視線は、仏教と同様に、人間が求めざるを得ない「無限」にしっかりと届いている。ただその対処法はまったく違う。根本的な矛盾を神秘的に一挙に解消するのではなく、その矛盾の具体的な表れに沿って、丁寧に手当てしていくというのがその流儀なのだ。

だから、仏教が「悟り」(有限と無限の全面的一致)を目指すゲームだとしたら、金光教は、「人を助ける」(有限と無限との部分的一致)ことを目指すゲームということになる。助ける側も有限と無限との不一致に悩む人間であるのだから、「助ける」ふるまいはそのまま「助けられる」ことに通じるだろう。

有限と無限との乖離という根本的な「苦」「難儀」の原因に対して、それが生活の中で表面化するそのつど「助ける=助けられる」という手当が無限に発動されるのだ。

それでは、金光教の神とは何か。

浄土真宗阿弥陀仏が、無限と有限との一致した生き方の象徴(人格化)であるというなら、金光教の神は、有限と無限の亀裂のその都度の手直しを象徴(人格化)したものであるといえる。氏子の難儀を助けることを願う親しげな風貌をまとって、「神も助かり、氏子も立ちゆく」存在として現れるのだ。