大井川通信

大井川あたりの事ども

通勤電車で金の光がひらめく(放射編)

今年になって金光教の勉強をし出して、いろいろな事がわかってきたが、まだ十分に理解できたという気にはなれない。

僕の宗教理解が進んだのは、20年近く前に今村先生の手引きで清澤満之に出会って以来だが、その後羽田先生をはじめとする真宗の近代教学の教えに触れることで、いっそう理解が深まった。

清澤の議論を圧縮していえば、宗教の独自の領域は、有限と無限との関係に尽きる。有限(人間)が自己を包摂する無限(神、自然、法)を明察することが宗教の目的となる。ただしこの定義を信奉する限り、人間に身近なところにある金光教の神観念をうまく受け取ることはできない。中途半端で認識的に劣ったものとみる他なくなってしまう。

ただし、教団のトップが教祖の伝統を引き継いで、本部教会の広前に365日座って訪れるすべての人の取次を行う(話を聞く)という驚くべきふるまいに象徴される無欲の救済主義、平等主義は津々浦々の教会のあり方にも貫かれていて、金光教が本格的で本物の宗教であることは肌感覚でわかる。そこをどう理解するのか。

先日、橋爪大三郎言語ゲーム論に基づく仏教論を読んで、目からウロコが落ちる思いがした。それを使って金光教のモデル化ができないかとも思ったが、考えあぐねていた。金光教の常識的、日常的な語法が、抽象的なモデルに乗りにくい気がしたのだ。

それが、今朝通勤電車で考え事をしている最中に、うまく金光教のモデル化ができそうな気がして、あわてて本の余白にペンを走らせながら、仏教との対比の図式を書き上げることができたのだ。

橋爪によると、仏教とは、ブッダをモデルにした修行者たちの「悟り」を目指すゲームだということになる。では「悟り」とは何なのか。これは清澤流に言えば、有限と無限の一致、無限(世界、自然、法)のあり方の明察ということになる。

なにやら格調の高い思弁ではあるが、僕なりに理解すると、人間の本能が壊れて自然の秩序から乖離してしまったことがすべての出発点であろう。疑似本能である自我や社会は常に本来の法(宇宙、自然)からのズレや逸脱に脅かされざるをえない。自らを有限なものとして自覚してしまい、無限の世界から追放されたことに苦しまざるをえない。

仏教の教義とは異なるが、人間以外の生物や無機物は「悟り」など目指す必要はないだろう。有限と無限の分裂以前の状態にあるからだ。

「無限」との一致である「悟り」を目指す場合には、出来損ないで不安定な身体に期待することはできずに、あくまで認識(智)の力に頼るのが仏教の方法だろう。しかし一度分裂した無限と有限との一致を一挙に回復するという戦略はいかにも困難だし、それゆえ悟りの内容もブッダ以外誰も理解していないという事態が生じてしまう。そこで登場するのが、金光教の戦略である。