大井川通信

大井川あたりの事ども

『本願と意欲』 平野修 2000

平野修(1943-1995)は、今村仁司先生に清澤満之を読むきっかけを与えた人だ。今村先生が講演に呼ばれたときに、平野さんから清澤満之の話を聞き、清澤への「限りない敬愛」を感じて自ずと読むことを誘われたという。

このエピソードから二つのことがわかる。平野さんが、批判的な社会哲学を専門にする今村先生に声をかけるほど、視野の広い仏教学者だということ。また、今村先生を魅了するような思索者として魅力をもっていたということも。

それで、この薄い講演集を買っておいたのだが、拾い読みしたくらいで止まっていた。今回、金光教の「神願」と、真宗の「本願」を比較しようと思って手に取った。

面白かった。問題を切り取り、問題の中心に迫っていくような柔軟な思索力が感じられる。また、仏教の現状を批判し、社会的な問題につなげようとする志向がある。今村先生との交流もうなずけるものだ。

おおざっぱに要約すると、著者は、本願というものを二方向から理解する。清澤以降の、内面の深い欲求としてとらえるのが近代的な理解。一方、平等の法(諸行無常の法)の側からの働きととらえるのが伝統的理解。その二つの理解が出会い、本願がでてくる場所として、我々の日常の「虚偽」が崩れる場面であると指摘するのは、具体的で納得がいく。

平等の知恵・慈悲である「法」に促されて、それに応える内面の欲求とともに人は目覚める。その法の働きを「本願」を呼び、その目覚める場所を「浄土」ととらえる。さらに、法の働きを「阿弥陀仏」として人格化し、法の働きの実現を「名号(南無阿弥陀仏)」で象徴させる。

前段の理屈はすっきりしているのだが、後段で阿弥陀仏と名号の話が出てくると議論はたちまち混濁化する。著者も複雑に積み上げられてきた教義の歴史となんとか連絡をつけようとして、引用が多くなる。著者自身、「真宗が非常にわかりにくいと言われるのは、こういうところに理由がある」と白状せざるをえない。しかし、これは必要不可欠な難解さなのか。

著者は、講演の導入部分で、念仏が形式化し、生活の指針となっていないことに警鐘を鳴らしている。しかし、それは、各人の目覚めという動態を、教義上の豊富な解釈があるとはいえ、一つの仏の名前に閉じ込めて符号化してしまったことの、自然な帰結なのではないだろうか。

金光教で「名号」にあたるものは、「天地書附」だろう。「天地の法に一心に願え、おかげ(目覚め)はわが心にあり」という具体的な内容をもつ書付が、念仏のように形骸化する可能性は少ないと思う。