大井川通信

大井川あたりの事ども

『われを救える教祖』 高橋正雄 1933

井手師から8月に推薦された書物で、すぐに手に入れていたのだが、読み終えるのにずいぶん時間がかかってしまった。同じ時に推薦された高橋一郎の『求眞雑記』と『金光教の本質について』を感激して即座に読み終えてしまったのとは対照的だ。これは本書が読みにくかったり、つまらなかったりしたということではなく、両者の書きぶりの違いによる。

高橋正雄は、金光教にこの人ありといわれた人物で、信仰者や教学者としてだけでなく教団のかじ取りにおいても重きをなした人である。代表作の本書は再刊されているし、その教えのポイントを解説したシリーズ本も出版されている。

高橋一郎はその長男だが、50歳になる前に亡くなっているので、教団内でもすでに忘れられた存在だろう。前二著も古書店で購入することすら難しい。

しかしこの父子の人物と思想は一見対照的ながら、どちらも魅力的で優れている。僕の金光教への信頼の源泉はこの二人の書き手(と二人を推薦してくれた井手師)との出会いによるといっていい。浄土真宗でたとえて言えば、高橋正雄は晩年の親鸞高橋一郎清沢満之に匹敵するのではないか。

本書の中で、著者は、教祖の足跡を実にゆっくりと丁寧にたどりながら、なんとか理解し味わおうとしている。どんな小さな疑問もないがしろにせずに、自分なりに納得できたところを書いているので、入門したばかりの者も置いて行かれるということはない。

また教祖のおこないと照らし合わせて、自分の心持ちや生活の変化についても、実に微細に見つめようとしている。さながらスローモーションを見るようだ。信仰というものを、生活の中で実にていねいにとらえようとしている。文章は平易だが、じっくり少しずつ味わいながら読み進めるのがふさわしい。

信仰の場面だけでなく、本を読むときも、物事を考えるときにも、「自分の生活」を「鍵」として接していかなければ本当のことがわかるものではないという言葉は、僕が日ごろばくぜんと考えてきたことを見事に言い当てられたような気がする。

一方、息子である一郎の本は、概念の切れ味や首尾一貫性を前面に出して、正面から信仰に向き合おうとする誠実さがある。『求眞雑記』の中に、父から子への言葉として「お前はこれまで自分のほうから求めてゆくという行き方に重きを置いてやって来たが、それだけでは足りない。今度の病気を通して、神様から与えられるもの、神様から来るものをじっと受けさせてもらう気になっておかげを受けよ」という父のアドバイスが引用されているが、まさにこの父子の個性の違いが浮き彫りになっているように思える。