大井川通信

大井川あたりの事ども

『求眞雑記』を再読する

高橋一郎師の『求眞雑記』は、出会ったばかりの井手先生からすすめられて、まっさきに取り寄せて読んだ本だ。昭和32年発行の小冊子で、今ではネットの古書店をあたっても手に入れるのが難しい本だ。

運よく手に入れて読んでみると一気に引き付けられた。金光教に限らず宗教についてのわかりやすい解説や経験談というのはありふれているだろうが、それらとは一線を画す印象だった。なんだろうか、普通はそれらはあくまで「内」向きの言葉と論理であって、どんなにやさしく書かれていても「外」にいる我々には了解不可能な壁を感じてしまう。信仰という非合理的な実践をもって飛び込まない限り、受け止めることは難しいのだ。

『求眞雑記』にはそれがない。教団内部の専門用語や独特な言い回しがないわけではないのに、我々のふところに直にせまってくるような感じがある。

たいていの宗教者の信仰やそれに基づく反省や謙虚さも、あくまでその教団のお約束の中でのポーズであるという印象がぬぐいがたい。そのお約束の中では、謙虚であることに価値があるからそのルールに従っているにすぎない、と感じられてしまう。

ところが、高橋一郎師の求道は、一教団の枠組みや約束事を踏み越えて、なおかつ自らの不安や疑心の根を尋ねようとしているかに思える。通常の「求信」という言葉を使わず、「求真」を選んでいるのもその表れだろう。

求めるのはどの個別の教団の中でも得られる「信仰」なのではなく、普遍的な「真実」なのだ。だから師は、信者向けのエッセイでも、教師として「啓蒙」の言葉を並べるのではなく、自分を納得させ自分を掘り下げるために書くというスタンスを崩さないのだろう。

師は、お約束の内省を見せるのではなく、本当に基本的なところからわかっていない部分(こういう言葉遣いではないが)をすがすがしくさらして、そこから真実へと向かう。生身の人間がそこに立っている感じがする。

僕が金光教に心を寄せよう、この信仰に沿って自分を立ち上げようと決心したのは、高橋一郎師の本に出会ったことが決定的な理由である。この人が信心する道なら、信じるに足ると。おのずとそう思えたのだ。

 

 

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