大井川通信

大井川あたりの事ども

『求眞雑記』 高橋一郎 1957

井手師からすすめられて、ネットの古本屋で金光教関連の冊子とセット販売されているものを見つけた。新書サイズの簡素な装丁で、150頁弱の薄くて古い本。しかし内容は鮮烈だ。

井手師がまっさきに名前を挙げたのが高橋一郎(1912-1961)だったのだが、本来なら実父である高橋正雄(1887-1965)の名前が先に出るはずだろう。教団内でははるかに有名で重要人物のようだからだ。

おそらく(問題意識や肌合いで)僕に合うだろうと判断されたのだろうが、まさに心眼をお持ちのようだ。

高橋一郎は、子どもの頃から直信(教祖から直接教えを受けた人)の薫陶を受け、東大哲学科に学んだ教団のエリートだ。しかし、40歳前に脳腫瘍を発病し、48歳で父親より早く病没している。

大きな手術後の後遺症に付き合いながら、人生の充実期の思索を綴ったエッセーだが、教団の月刊誌に連載されたものなのに、啓蒙的な意図はほとんど感じられない。媒体の性質上わかりやすく簡潔に書かれているが、あくまで自分に対して、自分の切実な問題に向きあうために書いている。

浄土真宗の曽我量深に教えを請いにいくエピソードには驚いたが、法然親鸞道元などの宗教者、また西田幾多郎三木清などの哲学者の思想も参照される。僕の好きな小説家田宮虎彦についての言及もある。それでも散漫にならないのは、あくまで生神金光大神への信仰を深め、そこに集約させようという思いがあるからだ。

また、父親との気まずい関係や、自分の家族とのかかわり、病気と後遺症への不安等がてらいなく描かれており、生活の現場での信仰のあり方が模索される。宗教は「生活実感」から離れてはありえないということなのだろう。

宗教や生活の足もとを見つめて、普通なら物事の前提とされてしまうことに対しても、言葉による追求を緩めない。信仰や思索の舞台裏を平気で明かしてしまう誠実さがある。

読み終わって、息遣いが感じられるくらい著者の精神が近くに感じられた。よい本を紹介していただいたと思う。