大井川通信

大井川あたりの事ども

『金光教の本質について』 高橋一郎 1949

ネットの古書店で手に入れたのは、著者の没後1966年に刊行された第三版。1952年に増補された第二版がもとになっている。

エッセイ集『求眞雑記』には魅了されたが、それは様々な話題(脳腫瘍手術という重い経験も背景にある)に著者の本音が顔をのぞかせているからだろう。本書巻頭100頁の主要論文「金光教の本質について」は、目次を見ると金光教の教義を体系的に論じたもののように見えて、きっとあまり面白くないだろうと予想していた。この種の入門書は、たいてい常識的な説明や約束事に終始して、凡庸なものになりがちだ。

だからとりあえず全部読む気はなく、初めの数ページに目を通したのだが、著者の異様なほど力をもった文体に引き込まれて、読むことをやめられなくなってしまった。

解説をみると、戦後すぐに、新たに金光教を学びなおそうという学生たちの要請を受けて、著者が書き下ろしたものだという。本書に直接の言及はないものの、長期にわたる戦争と敗戦のダメージは、教団にとっても、著者にとっても大きかったはずだ。「難儀な氏子」を助けることを願いとする宗教でありながら、結果的に無謀な戦争による大変な災厄になすすべがなかったことから目をそらすことはできなかっただろう。

著者は、だから、信仰の根底にさかのぼって一から考え直そうとする。人間にとって果たして金光教は必要なものなのか、から議論を始める。必要であるならば、それはなぜか。それはどんなものなのか、を筋道立てて論じていく。

人間の普遍的で理想的なあり方と、金光教という歴史上の一宗教とを結びつける、アクロバティックな試みといえるだろうが、その危うい逆説を成立させているのは著者の熱量だ。教学者として、あくまで金光教の正当な理解のうちで論じながら、しかし、こういう教えでなければならない、こうあってほしいという理想論に裏打ちされている。

著者の特別な資質(清沢満之を髣髴とさせる論理と求道の徹底性)と若さからくる勇猛な使命感とが、危機の時代とクロスするところで生まれた唯一無二の金光教論という気がする。著者の言う「金光教の本質」とは、現実の金光教の実態を超えたいわば「超・金光教」だ。