大井川通信

大井川あたりの事ども

お盆に金光教行橋教会を訪問する

初訪問から一か月たって、もう一度行橋の井手師を訪問することにした。この間に井手師の講演録『神願を生きる』を読んで、少し考えが進んだということもあるし、前回気持ちよく話ができて、またいらっしゃいと言っていただいたということもある。用意した地元の銘酒をもって出かける。

家の用事で出るのがおくれて途中で食事もとれず、行橋で金田屋ラーメンに駆け込んで、教会を訪ねたのは午後三時頃になっていた。しかしこれが良かったらしい。井手師は、午前中の小倉での集まりのあとに戻ってシャワーを浴びたばかりのところだったという。あなととは会えることになっているねと井手師。

年長の教会長への敬意ははずしてないものの、前回同様、自分のいいたいことはだいたい話せたと思う。金光教の第一人者に対して、臆面もなく、浄土真宗金光教の比較論などを展開する。こちらの無手勝流の議論にも、井手師はやわらかく受け止めながら、的を外さずにまっすぐに言葉を投げ返す。今回も約一時間、とても居心地のいい時間だった。井手師からは、何冊か文献を紹介していただく。

別れ際、あなたの健康をお願いしておきましょう、と井手師。僕が出た後に、お取次ぎをしていただけるということなのだろうけれど、通常の宗教施設であったら、それが重々しく中心にすわるべき儀礼のはずだ。

何十年も前だが、寺院で泊まり込みの読書会をしたときに、まずご本尊に参拝するのが礼儀であると住職から怒られた(そのあと僧侶の位や出世の話をくどくどと聞かされた)ことがあった。僕の訪問の目的を察して、本来は神聖な「広前」で、何の儀礼を求めずに融通無碍にふるまう井手師。僕が金光教を本物だと思うのは、宗派の隅々にまで浸透しているこうした自在な感覚だ。

僕はこれから、井手師の広前に月に一度通い続けようと思う。片道2時間はかかるが、かつて金光大神の広前に遠路はるばるお参りし続けた人たちの思いを追体験することができるだろう。金光教の学びを通じて、生死の問題、宗教(清沢流に言えば有限・無限)の問題に自分なりに目途をつけたいと思うのだ。