大井川通信

大井川あたりの事ども

祈祷(きとう)は迷信の特徴なり

近頃は、岩波文庫の『清澤満之集』所収の短文を毎日読むことを心掛けるようにしている。清澤満之との出会いは、今村先生晩年の紹介がきっかけだが、その後羽田先生ら仏教者との出会いもあり、清澤満之の思想と存在は、僕には特別なものになっている。

何より、清澤の思索のリズムと文章が、すっと身体に入ってくるような気がして心地いい。徹底して論理的であるシンプルな言葉が、世界の中核の真理に迫っていく姿は魅力的だ。

この文庫に「祈祷は迷信の特徴なり」というエッセイが収録されている。有限(人間)と無限(神)との関係として宗教をとらえる清澤にとって、あたかも有限と有限同士の関係のように神仏に祈り、御利益を期待するふるまいは、本来の宗教とはいえないという結論に何の迷いもない。僕も、シビアに思考を徹底すればそうとしか言えないと思う。

ただ、最近読み込んでいる「金光教」の神は、事細かに人間の世話をやき、人間の祈りに応えようとする、まさに有限的な存在である。神に一心に頼むという「祈祷」が金光教の信仰の中心だ。そこでの神と人間との違いは、より多くの媒介の手段と機会を持っているという相対的な優位にすぎないようにも思える。

ここをどう考えるか。

有限の存在が、無限に目を向けるといっても、有限の視界にとらえられた瞬間にそれはもはや無限ではなく、有限的な存在に堕ちてしまう。原理的に、宗教における無限(神)は、不純や汚れ(有限性)を免れない。だから、問題はそれがいかに不純であるかを指摘することではなく、不純のなかの純粋であるもの(無限)へと目を向け理解をすすめることが大切であると思う。

金光教における祈祷は、世俗的な願い(有限)を通じた神(無限)への第一歩と考えるべきではないだろうか。世俗にはまみれているが、その重点は無限へと向いているのだ。これは、金光教が他の宗派(世俗的権威)に対して寛容であったり、金銭(経済権力)に対して淡白であったりすることに現れていると思う。

今日は、清澤満之の忌日。没後120年。