大井川通信

大井川あたりの事ども

金光教の行橋教会を訪ねる

以前、地元の教会長さんと雑談をしているとき、行橋教会の井手美知雄教会長のことが話題にでた。教団では広く名が知られた人物だという。僕の大学の先輩だというのも親しみがわいた。

それで行橋に行く機会があるときに、ぜひ寄ってみたいと思っていた。午後から公民館で講演があるので、午前中早めに駅について、灼熱の商店街を日傘をさして歩く。

正直なところ、このところ金光教の勉強がお留守になっている。いや勉強全般が停滞気味なのだ。ただし何か具体的な悩みを話したいわけではないし、強いて言えば、金光教とは何かということを知りたい、体感したいということに尽きる。

玄関で案内を乞うと、教会長には先客があり、しばらくそこで待たせてもらうことに。教会長はおそらく取次をしているのだろう。

「生神金光大神、天地金乃神、一心二願、おかげは和賀心にあり、今月今日でたのめい」という天地書付の文言がくりかえし唱えられる。こうやって声だけで聞く、天地書付はとてもいいと思った。

天地書付は、浄土真宗における「南無阿弥陀仏」のようなものだろう。ある先生は「南無阿弥陀仏」の本質は、bow(頭を下げる)にあると喝破し、頭を下げるその場は即「浄土」であるという。同じように、天地書付が唱えられ実行されるところ、どこであれ「おかげ」に満たされる。

教会の祭場は新しく、とてもシンプルだ。床が一段高くなった奥の壁面には祭壇があったと思うが、少しも権威的なにおいがしない。礼拝の所作を求められることもなかった。右手前の席に真横をむいて教会長は座っておられたが、そのすぐ前の信者さんたちが座る席に招かれた。

教会長さんはさっぱりとした服装をしていて、向き合うのでもなく、背を向けるのでもなく、身体をななめにむけて自然体で話をすすめる。権威や序列を示す記号の少なさが金光教の特徴だろう。

簡単に自分の立場と、ばくぜんとした訪問の経緯と目的を話す。僕が信者であるのかないのか、取次を求めているのかそうでないのか、そういう区別立てが気にならずに、僕のなけなしの金光教や宗教についての知識をもとに、教会長さんとのやりとりが進む。

教会長はあらかじめできあがった教えを繰り返すのではなく、僕の話す内容に応じて、思いついたことを話してくれる。自然で融通無碍なふるまいだ。一時間ばかりお話をしたあとで、教会長に手持ちのパンフレットに一筆を求めると、署名とともに「はい。」と書いてくださる。軽やかな肯定のサインだろう。

あなたのような目的で来る人は珍しい、といわれたが、その珍しさが当たり前のように受け入れられてしまう。

神と人との距離がとりわけ近いのが金光教の良さだろうが、それは人と人、人と自然との近さに通じているのだろう。その近さはじっとりと密着して圧をかけてくるような近さではなく、さわやかなすき間風が通り抜けるくらいの距離感であるような気がする。