大井川通信

大井川あたりの事ども

『流浪の月』と「イエスの方舟」

読書会での事前のお題を考えていて、今までの気になった犯罪報道について話してもらおうと思いついた。直接小説とかかわらない(しかし小説を読む上で役立つ)お題は、息抜きにもなるし、参加者の視野を広げてくれる。

お題には、自分も答えないといけない。今までの冤罪報道などを振り返っているうちに、半世紀以上前の「イエスの方舟」をめぐる騒動を思い出した。もちろんネットも存在せず、マスメディアの報道が中心だった時代だ。少し昔すぎるかなと思いながら、あらためて思い返してみると、『流浪の月』の本質的なテーマとの共通性に気づいて驚いた。

おそらく作者も両者の類似など意識していないはずだし、若い読者にはそもそも「イエスの方舟」事件の知識すらないだろう。僕自身も、このお題を考えなかったら、そんな連想すらしなかったと思う。

しかし、イエスの方舟をめぐる実在の騒動を補助線としておくことで、『流浪の月』のテーマの魅力とその危うさ(脆弱さ)が浮かび上がるような気がする。

共通点の一つ目は、犯罪(騒動)の外形が、情状酌量の余地なく非難に値すると思われるところだ。一方は、男子大学生による小学生女児の二週間に及ぶ監禁だし、もう一方は、怪しげな教会による、平和な家庭からの若い女性たちの洗脳と強奪そして集団失踪である。

共通点の二つ目は、にもかかわらず、「被害者」たちは無理に強制されたのではなく、既存の家族制度などの抑圧性を逃れて、新しい人間関係(ユートピア、共同性)を求めたという事実である。そこには実際には性的な虐待や放縦などはなかった。

共通点の三つ目は、こうして作られた新しい共同体が、世間と真っ向勝負するのでなくその荒波を避けて「流浪」し「漂流」することである。『流浪の月』の二人は、長崎に移ってカフェを始めたものの、今後の「流浪」を覚悟している。また、イエスの方舟は関東から九州まで「漂流」し、福岡で生活のためにクラブをはじめる。

では、両者の違いとは何だろうか。

表面的には、『流浪の月』が男女のカップルであるのに対して、「イエスの方舟」が女性たちによる共同生活であるということだ。前者が、居心地のよさ、自分らしくいられる関係というあたりがルールであるのに対し、後者は、毎日聖書を読み続け聖書に基づく生活を送るという確たる原理をもっている。

イエスの方舟」が主宰者の死後も引き続いて長く関係を維持できているのは、世間に抗する関係の原理がしっかりしているからだろう。『流浪の月』の二人を結び付けているものは、小説に描かれている限りでは、とても脆い関係であるように思える。更紗の母がそうしたように、自分の気分次第で投げ捨てられる危険をはらんでいる。