大井川通信

大井川あたりの事ども

『観無量寿経』をざっと読む

浄土真宗の信仰を持っている人からすれば、『観無量寿経』の名前はとてつもなく重いものだろう。分厚い研究書のたぐいはいくらでもあるだろうし、僕の知る在家の聞法道場でも、多くの回数をかけて細かい解釈の勉強会を続けていた。

しかし僕にはそんな余裕はない。自分自身の生死の問題を考える(単なる興味の対象ではなく老年期に入ってその現実に直面しているわけだ)うえでの限られた持ち札として、たとえば浄土真宗(清澤満之)と金光教があるということなのだ。

浄土三部経をいたずらに有難がっているわけにはいかない。『かもめのジョナサン』が宗教的なマニュアルたりうるフィクションであるというなら、同じようなものとして『観無量寿経』を読まないといけない。そう思って現代語訳を読んでみたら、あっさり読めてしまった。

50年前のベストセラーである『ジョナサン』と比べると、1500年以上前の「フィクション」である本作品は、異様な内容と異様な書き方が目を引くが、当然ながらただちに現代人が共感できるものとなっていない。150年前の金光大神の事跡の方がはるかにリアリティがある。

乱れて汚れたこの世に対する新天地(浄土)が存在していること、その新天地は、この世とは全く次元の異なる組成をしていることが宣言される。では、その新天地に行くためにはどうしたらいいのか。

イメージ(観想)せよ、という。新天地はこの世と組成を異にしているから、この世の想像力ではとても追いつかない世界を、しかし無理にでもイメージしないといけない。イメージの困難な課題が次から次へと与えられる。このイメージ課題の困難さが、むしろ人間には魅力と映るのだろうし、新天地の存在とそれへの欲望を確かなものにするのだろう。

イメージから先に変われ!とは谷川雁の言葉だった。イメージ戦略は重要だと思うが、現在の浄土真宗ではあまり重要視されていないようだ。

様々な完全無欠なイメージ(観想)法が述べられた後、実際の人間の能力や因縁に応じた観想法がランク順に語られる。全ての人間は、イメージを媒介にして、死後、新天地(浄土)に生まれ変わることができる。これは浄土真宗的だが、真宗で決定的な阿弥陀の本願の話は、わずか一つの観想法のところでさらっと触れられるにすぎない。

ここで重点が置かれているのは、明らかにイメージ戦略の巧拙(人間と修行のランク)による新天地への入り方のランク付け、である。この経典を真に受ければ、浄土のイメージをひたすら観想する修行を徹底して推し進めるほかないことになる。

実際に原典にあたってみると、現代の信仰者が、いかにアクロバティックな読解(先人の読みが引き継がれる)を使って無理な解釈を引き出しているのかがよくわかる。それはこれが「聖典」だからだろう。だが、ひとまず「フィクション」として、その内容をストレートに受け止めるべきではないのか。