『ゆかいな仏教』を読んだ関連で、20代から積読していた橋爪の論文集に手を出してみる。言語ゲーム論をベースにした橋爪の宗教社会学の方法論は、ぜひ今後の金光教理解の手がかりにしてみたい。
ただ何より、仏教というものの把握という点で、興味深く役に立った。仏教は、たとえば日本化された浄土真宗一つ取り上げてもよくわからない部分が多い。まして他宗派があり、インドでの原始仏教があり、その背景にはインド思想・社会がある。
橋爪の理解は基本文献にあたりながら、それを単純なモデルの発展としてとらえるものだが、それでも素人には難しい。読んでいるときはなるほどと思うが、読み終えると頭から抜けてしまう。
それではもったいないので、橋爪の理論(『ゆかいな仏教』を含めて)をベースに、僕が了解できたと思えた部分だけを強引に部品化して組み合わせて、頭に叩き込んでおくことにする。よって大幅な曲解、誤解を含む。
まず、基本仏教(小乗仏教)というべきものがある。悟りを開いたとされるブッダをモデルに、比丘(修行者)たちが社会から切り離されてサンガを形成する。悟りの内容はブッダしかわからないし、ブッダの教えも平易で常識的なものだった。ブッダが死ぬと、その存在を時間軸にそって普遍化するために、過去七仏と未来仏(ミロク仏)が設定され、一世界一仏の原則も固まるようになる。
この基本仏教を部分ゲームとする拡大ゲームとして大乗仏教が生み出される。サンガを経済的に支える在家信者にも悟りにいたる経路を用意するのがその目的だ。基本仏教では単数or少数だった仏(ブッダ)がここでは拡大増殖し、サンガでの修行という道がなく社会の中で経済活動を続ける在家信者が仏にいたる道程を示すために、菩薩という存在が新たに生み出される。
大乗では、無数の仏がもつ無数の仏国土という世界観となるため、すべての仏を総括するシグマ仏(毘盧遮那仏)を設定する発想が生まれる。
また他世界の仏(例えば阿弥陀仏)とそこに至る菩薩(これは全ての仏国土に出入りできる)による救いという信仰が生まれることにもなる。
以上のモデルから、現在の浄土真宗を理解することができる。在家信者たちの聞法の集団的実践(強度の知的努力が求められる)に、サンガでの修行による悟りを目指す基本ゲームの強い残響がある。
ただし、本来は無限に長い菩薩行を圧縮するために、阿弥陀仏による救済にすべてをゆだねるというアクロバットが仕掛けられる。法蔵菩薩による衆生済度の本願が阿弥陀仏の存在によって既に成就しているという理屈(大無量寿経)である。ここに自力と他力との兼ね合いの理解の難しさが生じることになる。
ところで、阿弥陀仏の本願により極楽浄土に往生するとは、予備校(橋爪)やダンススクール(羽田)に入学して容易に仏になる修行を行えることを意味する。しかし阿弥陀仏は本来他世界の仏であり、この世界を超えるためには特別なパワーが必要なはずだ。「念仏」が異様なほどに強調されまたそれが複雑な意味をはらむ理由はそこにあるといえよう。
浄土真宗の近代教学といわれるものは、基本仏教の拡大ゲームとして生じた大乗仏教の矛盾や軋みをできるだけ除去し、現代人に受け取りしやすくしたものとも考えられる。
現世でのグループ(サンガ)による聞法修行と念仏が、そのままこの場に浄土を実現して、悟りに近づく活き活きとした力強い人生を可能にするという解釈は、阿弥陀仏の救済や念仏から神秘的なものをとりさり、自力と他力の矛盾を調停し整理するものと考えられる。
補注:以上本を読み返すことなく、頭の中に残った理解だけで文章を組み立てたが、ここ十数年の浄土真宗体験を自分なりにまとめて、すいぶんと腑に落ちるようになったと思う。