大井川通信

大井川あたりの事ども

『阿弥陀教』にざざっと目をとおす

お経にざっと目を通すシリーズ。『観教』に続いて、浄土三部経の一つである『阿弥陀教』を読む。これは近所の大社にも、阿弥陀教を刻んだ石碑があるくらいで、かなり短い。物語性はなく、教えだけがならんでいるようで、ざっと読む意味はあまりなさそうだ。

教えとなると多義的で、いろいろな解釈を許容してしまうのだろうが、ここで立ち止まってはわけがわからなくなる。あくまで遠目にそのアウトラインだけを印象批評しよう。サンスクリット語の原典からの現代語訳を読む。

ここでも西方にある浄土(極楽)について、装飾で飾り立てる記述が続く。ただし、『観教』のように、それをイメージせよというメッセージはない。ここでは、生ける者たちは、浄土に生まれ変わるためには、そのための願いをたてて、ひたすら集中してそれを願え、と言っているようだ。

少年よ、大志を抱け、というわけだ。イメージすることが後退し、願う気持ちが全面に出る。これが漢訳だと、「名号執持」とされて、なんだか南無阿弥陀仏の念仏に近いような印象がある。しかし、素直に読めば、あくまで求められるのは、願うことのパワーだろう。

後半になると、東西南北の方角と上下の方向にいる無数の仏が、それぞれこの法の教えを信じなさいと語る言葉が繰り返される。当時はこうした描写が教えの説得力をましたのだろうか。そして再び、ダメ押しのように願いを立てろと。

こうして実際に経典に触れてみると、実におかしなことに気づく。

仏説の聖典でありながら、その説くところを真に受けてそのまま実行してはいけないのだ。そうすると宗派の共通了解や思想的、宗教的達成をおおきく踏み外すことになる。聖典以後の解釈の歴史を重んじて、その内容の習得に多くの時間を費やすのも、つまり「法を聞く」といいながら、実際には複雑な経典解釈の歴史に深入りするのも、この大きな矛盾を押し隠すためなのかもしれない。