大井川通信

大井川あたりの事ども

差別語とマイクロアグレッション

マイクロアグレッション(微細な攻撃)は、1970年代にアメリカの精神医学者が提唱した概念らしく、近頃、日本の人権問題、人権教育の領域でよく耳にするようになった。いかにも海外の「最新理論」と真新しいカタカナ語の導入を無条件で受け入れる業界らしい風景だ。

70年代といえば、同じような問題が、日本では「差別語」の問題として広く議論されていた。言霊(ことだま)の国らしく、コトバに過度に焦点が当たってしまったきらいがあるが、それなりに人間関係のなかの「微細な攻撃」についての議論の蓄積があったはずだ。我が岡庭昇もそれに関する本を二冊書いている。

当時は、同和問題や障害者の解放運動の高揚期で、運動の鎮静化とともに、差別語の問題も議論されることがなくなってしまった。今では、言葉遣いのマナーや処世術のレベルの話になっている気がする。

丸山真男が『日本の思想』で提出した有名な論点だが、日本では、どんなに流行した議論も蓄積されずにぶつ切りに終わっていまい、次の世代に引き継がれることが少ない。マイクロアグレッションの議論も、外国の文献の翻訳と応用に終始して、かつての差別語問題との関連を考えたり、両者の異同を整理したりする動きは出てこないような気がする。

そこで自分なりに、いくつか論点について、簡単に両者の連絡をつけてみたい。

当時は、差別語を言い換えるべきなのか、という点で、大きく二つの立場があった。一方は、単なる言葉の言いかえでは、実際の関係を変えることはできないし、むしろ差別の実態を隠してしまうと主張する。これに対してマイクロアグレッションの視点からは、実際に今ある「微細な攻撃」に気づき、それを後退させる効用があると反論することができるだろう。

また一方には、少しでも「差別」の可能性がある言葉をすべて使用禁止にしようという主張もあった。たとえば「手短」のような、手間や手順が短いという語源からも、その意味が「簡潔」というプラスの価値を担っていることからも、とうてい差別的とは言えない言葉も、「手が短い人が聞いたら傷つくかもしれないから」という理由で避けられるようになった。

これなど、悪の要素を認定されたコトバを放置すると、悪がはびこるという言霊思想が背景にあるようで興味深いが、その言葉が使用される状況に実際にどんな「微細な攻撃」があるのかを検討することから、より実際的な判断ができるようになると思う。