大井川通信

大井川あたりの事ども

『サークル有害論』 荒木優太 2023

最後まで、著者の議論にピントをあわせることができず、何のためにこのような立論をしているのかよくわからないままで読み終わった。

ひょっとしたらという仮説でしかないが、著者は、サークル(小集団活動)について嫌な体験をもっていて、その有害さを理論的に解明しようと躍起になっているのではないか。だから、その可能性を探るという前向きな発想にならずに、その有害さを消すことしか頭にないのだろう。

しかし、これはかなり特殊な前提だから、そのことを明らかにせずに本を書くと大方の読者の関心とはずれてしまう。著者はそのことにあまりに無自覚すぎるような気がする。自分が年を取ったせいかしらないが、この手のひとりよがりを若手の人文系の研究者の書くものから感じることが多くなったような気がする。

僕自身の体験でいえば、学生時代から、常の複数のサークル(小集団活動)につかずはなれずの関係をとりながら生きてきた。当然ながら、刺激を受けて歓喜することもあれば、感情的なささくれだった思いをすることも(与えることも)あった。しかし、大小のサークルの恩恵抜きに、今の自分はないだろう。

著者の視点が共感できないのは、サークルが有害だとして、では家族はどうなのか、学校や会社などの組織はどうなのか、ということだ。その呪縛力において、その有害さの程度においてサークルの比ではないだろう。多くの人にとってサークルは、そこからのシェルターの機能を果たしてもいるのだ。この本の貧相な議論を読むと、著者に肯定・否定も含めたサークル経験はあったのかと疑いたくなる。

読みながらとくに違和感をもった点をいくつか。

著者は、人文では解毒の特効薬にならないとして、その淡い期待を砕いてみせると大見えを切る。その証拠として出してきたのが、なんと小林多喜二の『党生活者』と谷川雁森崎和江の『サークル村』だ。

戦時中の非合法活動や、圧制ヤマでの労働運動といった歴史的な条件は全くスルーさせて、サークルに原罪が背負わされる。歴史的な資料や文献にあたることと、「歴史意識」があることがまったく別のことだと思い知らされる。

普通であることは、抑圧に加担しているからバカである、という論理は、洗練された認識的・倫理的枠組みだから批判する必要がないように見える、といった記述をさらっと書いているが、差別問題をめぐる運動とサークルのごたごたした議論に関わってきた自分には、現実はそんな簡単なものではないと言いたくもなる。

最後の方では、鶴見俊輔とともに、田辺元花田清輝などが高く評価されるが、鶴見以外、サークル活動の実践に関わって思索の対象にすえそれを理論化したわけではないだろう。単なる鶴見論ならこれでいいのかもしれないが、サークル論と銘打ちながら、現代のサークルと何の関係もない思弁を、切り札の様に引用するのはどうなのか。

サークルが有害というより、サークルの実践にとってまるで無害な(無関係な)本に思えた。