大井川通信

大井川あたりの事ども

『滝山コミューン1974』を読む 2008.2.22報告

1 不在のコミューン

私が小学校6年生になった1974年、七小を舞台に、全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、そして七小の改革に立ち上がったその母親たちをおもな主人公とする、一つの地域共同体が形成された。(P19

こうして片山のもくろみは見事に成功し、74年度後期における6年5組の絶対的支配が確立した。独裁体制の確立と言ってもよい。(P251

著者原武史(1962-)によって、「滝山コミューン」の実在は少しも疑われていない。しかし、この本の叙述を追っても、そのような共同体の成立をしめすような説得力のある事実は最後まででてこない。著者がどのように熱弁を振るおうとも、一人の熱心な教員の力で、集団作りの実践が行われ、児童たち自身の手によって課外活動がきわめて活発に行われた学校、ということ以上の意味を読み取るのは難しい。

児童同士に単なる級友を超えた特別な関係が生じたという証言はないし、教員相互、保護者相互の関係も言及されていない。教員と保護者との「連合」の事実は指摘されるが、そこには70年代の時代の空気の影響が感じられるだけである。三者間に何か特別な有機的関係が生まれていたとも思えない。

「絶対的支配」「独裁体制」という言葉にいたっては、少年だった著者の気分を表わしているのかもしれないが、具体的に一体何を指しているというのだろうか。5組の生徒が担任にはっぱをかけられて、課外活動でリーダーシップをとったという事実を、あたかも学校全体が独裁政権によって支配されたかのように描き、それが一つの地域共同体の成立につながるとまで語るのは、ほとんど常軌を逸しているというほかないだろう。

 

2 団地的郊外

1974年に「滝山コミューン」が確立されるに至る背景には、明らかにこの極端なまでに同質的で、孤立した団地の生活環境があったと思われる。

団地の児童の遊び場は、団地の中につくられた同じようないくつかの公園と決まっていた。集落の児童のように、近くの黒目川や氷川神社で遊ぶことも、伝統的な祭りに参加することもなかった。団地の外に出掛ける機会はほとんどなかったから、そこにどういう世界が広がっているのか、想像すらできなかった。(P27

著者は、しかし実際には、鉄道好きな父に連れられ頻繁に団地の外へ出歩いている。高学年になってからは、都心の進学塾まで毎週一人で電車通学を行っている。滝山団地の極端な同質性とは、そういう著者の視線によって見出され、強化された虚構ではないのか。さらに彼は、担任とのサイクリングや塾通いによって、初めて団地の外部に「歴史」を発見する、という物語を仕立て上げる。

郊外とは、均質で閉じられた環境なのではない。都市化のフロントラインであり、市街地と村落、近代と前近代がせめぎ合い、複合する空間である。しかも開発の波は、時間差をもって現れる。滝山団地の足元にも、多様で重層的な時間と空間をはらむ場所が広がっていたはずである。著者を含む子どもたちは、遊びを通して実際にそれに触れていたのだと思う。

 

3 批判の根拠

しかし、ここで問題にしたいのは、自らの教育行為そのものが、実はその理想に反して、近代天皇制やナチス・ドイツにも通じる権威主義をはらんでいることに対して何ら自覚をもたないまま、「民主主義」の名のもとに、「異質的なものの排除ないし絶滅」がなぜ公然と行われたのかである。(P212

この学校はついに、5組によって支配されるのか。それに対して乾は、何の疑問も感じていないではないか。一体なぜだ。どうしたらこれほどまでに人の心を変えることができるのか。(P144

ここにいるのは「みんな」ではない。ぼくだ。「ひとり」だ。私は完全に冷めていた。(P223

著者は一体何に反発していたのだろうか。公立小学校での集団生活やそこでの集団主義に対してなのだろうか。

しかし、著者が潔癖なまでに拒絶するのは課外活動についてだけであり、様々なルールや規律に縛られていたはずの学校生活全般には及んでいない。また、進学教室や中学受験におけるもうひとつの集団性、共同性は積極的に受け入れている。

彼が目の敵にするのは、集団性そのものではなく、集団主義的なイデオロギー、ひとりをみんなへと変換してしまうような言葉、なのである。彼の主要敵が言葉である限りで、その言葉が蔓延するかに見える滝山団地は、彼に敵対するコミューンとして膨れ上がる。

彼には、課外活動が、片山とそれに率いられた5組の主導によって、彼ら自身の利害にかかわってなされていると見抜いていた。それがみんなのためという普遍的な利益を僭称することが耐え難いのだ。しかも、そのことに気付いているのは自分だけである。

 

もし私がいま小学6年生であれば、おそらく七小でも行われているであろう「君が代」の斉唱の強制による愛国心の育成に対して、同じように抵抗しようとするはずである。そして、その体験もまた、私にとっての原点として記憶されることになるに違いない。(P212

奇妙なことに、75年3月まであれほど鮮明だった私の記憶は、慶応に入学するとともにしだいに曖昧になり、いまでは自分が慶応に通っていた過去をもっていること自体が信じられなくなっている。(P272

同じ東久留米にあるもう一つの「学園」が永遠にあってほしいという願いを込めて、

私はあえてこの和歌を最初に引用した。(P285

著者の批判の立脚点は、言葉の欺瞞を暴くこと、にある。ひとり=みんなというような、「ベタな」言葉のお約束に対して、常にメタレベルに立ち、それを嫌悪し嘲笑し続けることである。

しかし、これは、きわめて脆弱な足場である。不正義や弱者の存在を、批判的な知の立脚点とする「正統的な」立場と比較すれば、それは明らかだろう。著者は、「滝山コミューン」から逃げ出しながら、いまだにその存在に怯え、とらわれ続けている。虚構のコミューンのリアリティを反芻することで、自身の批評的なスタンスを確かめるほかないのだ。彼のためにこそ、滝山コミューンは永遠でなくてはならない。

この本に多くの同世代(以降)の読者が共感するのだとしたら、現在の知や批評が否応なく運命づけられたあり方を、ほとんど原形のまま取り出しているからかもしれない。著者が74年の日常に見たものは、90年前後の転換点を通して消滅してしまっている。74年から始まったものは、今の「日本」ではなく、日本の「知」のありようである。

 

4 他者としての級友

はじめから終わりまで対象と距離をおいたまま、その対象を批判することはできるのか。一度はその対象に飛び込んでみない限り、歴史をより客観的に描くことはできないのではないか―小林の短いメッセージは、私にとっては最も耳の痛いこのような問いかけを、鋭く突きつけているように思える。(P151

小林の沈黙の意味は深い。その沈黙が続く限り、この物語はやはり「欠陥」を抱えていること、それを埋められないかぎり、小林の存在は常に「私」の物語に回収される恐れがあることを、ここで自戒とともに記しておきたい。(P203

小林は、著者にとって二重の意味で及びがたい存在である。著者が積極的に帰属しようとした進学教室の児童の中で彼は圧倒的な学力を誇り、著者の出来なかった第一志望合格を果たしている。また、著者が逃げ出そうとした「滝山コミューン」に対して、十分批判できるだけの力量を示しながら、転校直前の林間学校では一転、コミューンのリーダーとして腕をふるって去っていった。

著者にとって、小林の「不可解な」振舞いは、この物語の欠落、穴として意識されざるを得ない。小林は、著者の集団主義批判のさらにその先を行っているのではないか。あえて批判の対象に飛び込むという、より先鋭な批判意識がそこにあるのではないか。

しかし、そんな批評の先陣争いは不毛である。この物語に欠落があるとしたら、彼ら優等生の自意識が問題なのでなく、このコミューンから排除され、絶滅させられたとされる何者かに対する感性や記述を欠いていることであるはずだ。

いや、あるいは、そんな絶滅なり排除なりは始めから存在しなかったのかもしれない。

しかしそこで明らかになったのは、当時の細かな記憶を、中村ら一部を除いてみな喪失しているという事実であった。十一年ぶりに再会した元同級生とは、話がほとんどかみ合わなかった。(P276

元同級生たちにとって、独裁へと反転したコミューンなど実在しなかったのではないか。著者の物語の破綻は、小林の沈黙以上に、彼らの記憶の不在という事実にあるのだと思う。しかし、著者はその事実を不満げにやり過ごしているだけのように見える。