大井川通信

大井川あたりの事ども

『知覚の呪縛』を読む(その3 ワラ地球)2007.4.20報告

Ⅲ 通勤空間 -ワラ地球への入り口としての-

【通勤空間のヒトカタ・イエカタ】

昨年から筑豊の田舎の事務所に職場が変わったので、車通勤になった。それまでは福岡駅や天神を経由して、人ごみを掻き分けて出勤していたのだ。ひさしぶりに天神に出たとき、行きずりの無数の人たちを見て、これはヒトカタだなと気づいた。

通勤電車の中では、見知らぬ者同士が密着するほど押し込められながら、互いにまったくの「儀礼的無関心」を装うことで秩序を保っている。携帯電話が不快なのは、ただのヒトカタであるべき他人が、突然一人の人間としての厚みを取り戻すことで、この秩序を乱すからだ。通勤電車の中では、互いにヒトカタとなることで、安心して本を読み、仕事や家族の事を考えるなど、各人のオトチに思いをはせている。しかしそれが可能なのは、通勤電車が、家庭と職場という濃密な人間関係をともなった場所(モトの地球)を結ぶ仮の世界にすぎないからだ。

もし満員電車に終点がなく、そこに無数のヒトカタたちと永遠に閉じ込められるのだとしたら。そんな無謀な想定は、ワラ地球に包囲され続けるSの恐怖をかろうじて想像する手立てになるかもしれない。

【不安の立像】

通勤途中の風景は、イエカタの連なりとなる。漫画家諸星大二郎の『不安の立像』(1973)は、通勤地獄にあえぐ若い会社員を主人公にした短編である。彼は、息苦しい満員電車の車窓から、線路際にいつもたたずむ黒い人影のようなものに気づくようになる。しかし周囲の人間は、その影に驚くほど全く無関心である。ある晩、途中下車して影のあとをつけると、黒い布の下の不気味な正体をちらりと見せて、地下道の隙間の闇に姿を消してしまう。彼は余計な関心を持つことの非を悟り、満員電車の車中で他の人たちと同様の無関心を装うようになる。

この作品には、通勤空間に潜む不安と狂気が見事に形象化されているのだが、影が隠れ住む地下道の隙間こそ、「ワラ地球」への入り口を暗示していると思う。

 

Ⅳ 補論「一過性全健忘 -私のワラ地球体験-」

【一過性全健忘】

1.症状は突発する。

2.前向健忘(新しいことの覚えこみ障害)が非常に強く、繰り返し同じ質問をする。

3.発作前の出来事に対する逆向健忘(追想障害)を生じる。

4.発作後、発作期間の健忘を残す。逆向健忘は縮小し、残ってもごく短い。

5.後遺症はなく、再発率は25%以下。3回以上の発作は3%以下。

【過去を失った世界】

3年ほど前、突然、一過性全健忘の発作に襲われた。発作の期間中、6時間程の記憶は全く失われている。その間の自分の状態は、たまたま一緒にいた友人の観察と記憶を頼りに再現できるだけである。その間、「今、寝てたでしょ?」「いや寝てない」というやり取りを何十回も繰り返す。「あ、今目が覚めた」と何十回もつぶやく。主観的には、絶えず新しい世界に投げ出され、そのつど目覚めを経験しているようなものだったのだと思う。

友人の証言で興味深いのは、私が周囲のものへの関心を失い、「そこにいない人みたいだった」という点だ。周囲の事物も、また自分自身も、過去とのつながりを絶たれて、いわば時間的な厚み・パースペクティブを失い、ワラ化を生じていたのだろう。私の世界はその都度の今に宙吊りにされていたのだ。

分裂病とは原因も病状も全く異なるものだが、記憶できないという「卑近なまでに身近な出来事の変質」が、世界を一変させるという意味ではどこか共通の体験だったのかもしれない。もっとも、私には、何一つ覚えていないために自分の経験とはとても思えないのであるが。