大井川通信

大井川あたりの事ども

啄木の通勤電車

読書会で、石川啄木(1886-1912)の歌集『一握の砂』(1910)を読む。啄木24歳での、生前出版された唯一の歌集だ。全551首のうち、通勤電車の風景を詠んでいると思われる歌が三首ある。

 

こみ会へる電車の隅に/ちぢこまる/ゆふべゆふべの我のいとしさ

いつも逢ふ電車の中の小男の/稜(かど)ある眼(まなこ)/このごろ気になる

人ありて電車のなかに唾を吐く/それにも/心いたまむとしき

 

僕は以前から、通勤電車の空間というものの異様さが気になっていた。そもそも都市は見知らぬ無数の人間と顔を合わせて生活する場所だが、通勤電車の中では、人間同志が手持ちぶさたで至近距離に存在しながら「儀礼的無関心」を一定時間装わなければならない、という意味で、きわめて特異な場所だ。自分以外の他人を、まるで厚みの無い人形のように扱う点では、統合失調症の心的風景に近いのかもしれない。

啄木は故郷を出た後、文学を志して上京を繰り返したり、家族を養うために地方を転々としたりしたが、歌集出版の前年にようやく朝日新聞の校正係としての職を得ている。我々にとってはすでに見慣れた日常の通勤電車にも、啄木はヒリヒリするような違和を感じざるをえなかったのだろう。

一首目では、人形のように縮小する自分自身を、また二首目、三首目では人形同士の「無関心」におさまらない興味や嫌悪を描いている。