大井川通信

大井川あたりの事ども

『哲学とは何か』 竹田青嗣 2020

読書会の課題図書でなかったら、竹田さんの新著を手に取ることはなかっただろう。しかし、せっかく読むなら、竹田さんの本の「本質」についての自分なりの新しい納得をみつけたいと思った。竹田さんを新しく読むメンバーが、はたしてこの本を「面白い」とよむのかにも興味があった。

後者については、メンバーには文学と哲学のプロがいて、信頼できる彼らの読みは相当辛辣で、僕には共感できるものだった。そりゃそうだよね、という感じ。てっとりばやく正解がもらえてありがたいというタイプならとにかく、すくなくとも自分の頭でモノを考えようという人間には、違和感ありありの書き方なのだ。

哲学に関する根本的な謎を解明した、解き明かした、と繰り返す。それを為しえたのはごく少数の哲学者であり、それを正確に読み取っているのは自分だけで、自分以外のほとんどすべての学者は誤読しているという。自分だけが真理にアクセスしているというわけで、この言い方自体、一部の宗教者や誇大妄想狂以外けっして使わないものだろう。

それではその「解明」がどんなことなのか、というと、これがおそろしく簡単なもので、きわめて常識的であり、厳しく言えば「ちゃち」と思えるものなのだ。現代人にとって常識的であって大切なことだから、なるほど誰もが納得せざるを得ないというのは著者のいうとおり。

仮に著者の解明が正しいとしたら、こんなシンプルな理屈を読み取るだけのために、難解でやっかいな哲学者のテキストを読む必要はまったくないということになるだろう。今までの哲学者の多くは無駄なおしゃべりをしてきたというなら、今後も哲学など不要となり、著者のいうような新しい哲学世代などでてこないことになる。著者の発想に従えば、彼らは竹田さんの学説を信奉し、それをなぞるくらいしかやることはないはずだ。

(弟子筋の「教育哲学者」苫野一徳は、竹田さんの成果だけを間違いのない結論として扱い、実践に適応している)

哲学はいわば常識批判だから、常識の側からすれば、言わずもがなで無駄な詮索に思える。著者の発想の原型は、どんなに細かく哲学諸派の学説を検討しているかのように見えても、結局は、この常識による哲学批判というところにあるような気がする。

だからこそ、この本の文脈に従えば、あらゆる哲学説は多かれ少なかれ間違いであり、哲学の根本的な謎もことごとく解明しつくしたという、哲学の徹底粉砕ということが可能となるのだろう。

しかし、著者の全能感と高揚感の達成と引き換えにして、読者に残るのは、戸惑いと思考に対する不信感(シラケ)だけだ。真理の本質的な解明者に対する崇拝、という「誤読」もごく一部にはあるかもしれないが。