大井川通信

大井川あたりの事ども

『目的への抵抗』 國分功一郎 2023

読書会の課題図書で新潮新書の一冊を手に取る。当代の人気哲学者だから、同じ読書会で扱うのも4冊目になるが、どうも僕は著者とそりがあわない。肝心なところで議論に大きな欠落というか死角があるのが気になってしようがないのだ。

本書は、高校生や大学生に対して比較的自由に話した講義録で、対等な姿勢で可能なかぎり平明に言葉を届けようとしているのがわかって、著者の人柄には好感が持てた。問題意識の真面目さや誠実さを疑うことはできないだろう。

内容については、コロナ禍の真只中で、移動の自由の制限の問題から入って、目的合理性一本やりのこの社会の本質を批判するというものだ。そこから目的からはみ出す「自由」「浪費」「遊び」が称揚される。プロセスや手段の充実をこそ大切にしていこう主張で、語られている内容に目新しさはなく、十分に理解できることだ。

しかし、どこかトンチンカンというか、ズレているというか、よけいな力こぶが入りすぎて空回りしている感じが否めない。コロナ禍の話題は最新だが、扱われている理屈は40年前の哲学の先生が話していてもおかしくないような内容なのだ。

これはどうしたことだろう。哲学研究者が仲間内で議論しているだけなら問題のない事かもしれないが、少なくとも日本の社会に向けて議論を発信する場合に、決して外すことのできない問題意識というものがかつてあったと思う。それは、ヨーロッパの思想家の概念や論理を、そのまま日本に移植することができるのか、という論点だ。

たとえば丸山真男は『日本の思想』(1961)の中で、海外の流行思想の紹介は日本の「無構造の構造」ともいうべき空間にとりこまれてしまい、上滑りするばかりで意味のある議論を構築し蓄積することができていないと指摘している。

あるいは柄谷行人は『批評とポストモダン』(1985)の中で、ヨーロッパの最新思想がテーマとする「形而上学批判」(主体、生産、構築、目的、意味、同一性といった支配的な概念への批判)は、いわばポストモダンが先取りされている日本では「的外れ」になると指摘した。

これらの論点を、本書にあてはめてみよう。海外の思想の紹介や引用をベースにする議論は、日本人が自前で考えることを阻害する。特に若い人たちに常に正解は海外の思想家がもっていると刷り込んでしまうことの罪は大きい。しかも本書が扱っている「目的」「手段」等の概念は、近代社会(資本主義社会)の基本的な語彙であって、海外思想家の引用なしでも批判的な議論をすることは容易なはずである。

また、著者の「目的批判」が空回りをまぬかれないのは、日本にはもともと「反目的」的な風土、むしろ「手段」を楽しむという風潮がもともと支配的だからだ。著者の議論は身のまわりの現実に足場を持たずに、思想家のテキストから演繹されたもののような気がする。(以前の著作でいえば、彼の「中動態」についての立論は、もともと日本社会には能動も受動も際立つことなく「中動態」的な事態が支配的であるという重要な事実を無視することで成り立っている)

著者の書きぶりからは、この二つの論点に対する自覚や警戒心を感じとることができない。つまり、欧米の権威ある思想に頼り切ること、その思想がそのまま日本に当てはまることが当然の前提になっているのだ。

著者だけではない。これはある世代以降の論者に特徴的な傾向だという気がする。確かに、日本ではかつての前近代的ムラ社会は姿を消し、表面的な貧しさや格差は見えにくくなっている。均質化された社会は欧米と地続きのように思われるのかもしれない。しかし、かつて丸山や柄谷、小林秀雄吉本隆明らの先達が格闘した問題が煙のように消え去ったとは思えない。

著者の平板な議論が、出版界や読書界で手放しで持てはやされる風潮は不気味ですらある。

 

 

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