大井川通信

大井川あたりの事ども

批判主義の帰趨(批評をめぐって①)

※これから引用するのは、北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読みながら、2006年の時点で、この30年ばかりの思想と自分とのかかわりを振り返る長いレジュメの一部である。

15年前、安部文範さんと始めたばかりの勉強会「9月の会」で報告したもので、自分なりに力を込めた文章だった。レジュメの残りの章も順番に紹介してみたい。まず初めに、自分の批判主義=左翼性を振り返った文章から。

 

【批判主義の帰趨 思いつくままに】

僕の場合、家父長的な威厳をもった父親が、革新政党共産党)の支持者だったから、自然と子どもの頃からその価値観が刷り込まれていた。選挙の度ごとに、革新の議席の増減に一喜一憂するというふうに。無宗教の家庭だったにもかかわらず、この世に悪の体制と善の批判勢力があるという、神学的な図式を身に着けていたのだ。学問や学歴や対する信仰には疑いを持たなかったから、子ども心に、学者や東大出身者にも自民党の支持者がいるというのが不思議だったのを覚えている。

80年に早大法学部に入学した後も、マルクス経済学の講義を聞いたり、民青の友人と議論したりして、左翼への関心は持ち続けていた。また高校時代の延長で、近代文学や抒情詩の世界に浸りながら、私生活ではヘビーな片思いに陥ったりした。政治や社会の変革のビジョンと、実存や感情の泥沼と。いってみれば、時代遅れの「政治と文学」の問題をひそかに反復していたのだ。その時、たまたま手にとった岡庭昇の文芸評論は、一身の感情の問題を掘り下げることが、世界の批評に通じていくというもので、すぐに引きつけられた。偶然、地域の「障害者自立生活運動」に出会い、施設を出て自立生活を始めた障害者の介助を行うようになる。岡庭がいう、抑圧された身体性による批判、を実践しているつもりだったのかもしれない。

大学の後半では、東京経済大学の偽学生となり、フランス現代思想今村仁司のゼミに属して、経済人類学の山崎カヲル社会学桜井哲夫の講義にもぐったりしていた。83年はマルクス没後100年にあたり、東経大で哲学の廣松渉を招いたシンポジウムが開催される。廣松の精緻で関係主義的な世界認識は、当時の僕のバイブルだった。また、同じ年には、「構造と力」によって登場した浅田彰の話を一橋大で聞き、疎外論的・身体論的発想を明快に打ち破る理論に目をみはった。

障害者の作業所で勤務する道も探るが、結局は、生命保険会社に就職し、九州に転勤。勤務の合間、地元の新左翼党派とかかわったりした。環境の激変の中で読んでも、文芸批評家柄谷行人の文章のリアリティが落ちないことに感心する。会社は3年で止め、東京に戻って、塾講師を始めた。この間、柄谷の早大祭連続講演、浅田や蓮実重彦の講演、岡庭主催の同時代シンポジウム、管孝行の反天連の集会、東経大の今村の講義等、比較的自由に顔を出した。就職後の社会経験の中では、市場と外部の関係を問題にする上野千鶴子マルクス主義フェミニズムや、日本の会社主義を解明する奥村宏の法人資本主義論を実感をもって受け止めることができた。

90年には再び福岡に転居したあと、竹田青嗣加藤典洋の読者グループとかかわるようになり、彼らのポストモダン(柄谷・浅田)批判には一定の影響を受けた。ポストモダン派の外部からのラディカリズムに対して、竹田らは、共同体内部での実感やエロスを対置する。しかし竹田らが、その方法を、社会批判一般を形式的に封じるための手段として使うように見えたことには反発を感じた。

やがて子育てや仕事が忙しくなるとともに、僕の中の批判主義も次第に収束していった感がある。冷戦終結バブル崩壊以降の停滞する複雑な現実を読み解くために、経済学や社会学の著作にあたることが多くなった。仕事で同和行政にかかわり、形骸化した批判主義の現状に触れたのも、そこから離脱する要因となった気がする。自主グループ水平塾に参加したが、硬直した運動を批判するのに、正しいラディカリズムをもってするという方向には納得できなかった。むしろ、マイナーな運動批判を実践する藤田敬一の雑誌「こぺる」に共感し、投稿したりする。

90年代後半には、永井均の〈私〉論に出会って、世界を根底から相対化(批評化)する起爆力を感じる。また、柄谷が「トランスクリティ-ク」で資本主義批判の論陣を立て直したことにも刺激を受けた。現在に至るまで、未だ混沌としているが、政治的、思想的な立場・流儀とは別の場所で、もっと自由に批評的な姿勢を取り得る、という思いは深まっている。