大井川通信

大井川あたりの事ども

『戦後青春』 岡庭昇 2008

7月14日は岡庭昇の忌日なので、一冊を取り出して読む。

すさまじい本だ。奇書といっていいかもしれない。池田大作創価学会の擁護、というより礼賛の本である。しかし著者は創価学会の外部の人間だから、そのかかわりは身近な交友関係や読書など、ごく部分的にとどまる。アンチ創価学会の偏見には辛辣だが、自分の思い込みにはやたらと寛容だ。

その部分的な情報に基づいての大絶賛には、客観的にみると、ほとんど説得力がない。わずかな材料に基づいて自由な思索を試みているのはわかるが、そこにはあまりに大きな飛躍をはらんでいる。しかし、こんな評価は野暮なものだろう。

岡庭はやはり、思想家であり文芸評論家なのだ。かつては萩原朔太郎椎名麟三、フォークナーを一冊の著作を通してオリジナルな観点から激しく肯定したのと同じように、池田大作を俎上にして、ある一点に関して本質を切り出して、そこに自らの思想の全体重をかけて批評する。肯定する。

その一点が、「戦後青春」という概念だ。これが、吉本隆明の「大衆の原像」のような思い入れのあるキーワードであることを理解しないと、この本はほとんど無意味になってしまうだろう。戦後青春とは、戦後のある時期までに存在した、困苦と希望に満ちた民衆の身体性みたいなもののことだ。(吉本の鍵概念と比べると、同じ大衆を扱っても限定的なもので、よかれあしかれ岡庭の議論の射程を閉ざしている)

若いころの岡庭なら、もっと慎重な手続きでいろいろ留保をつけて肯定していたはずだが、きわめてナイーブにもろ手をあげて絶賛している感じだ。しかしそこに彼の本音や具体的な経験が語られていて、岡庭ファンには面白かった。三光汽船の経営者であり学者でもあった著名な実父岡庭博のことが「戦後青春」の一つの姿として取り上げられてもいる。

実社会では無力な文学者の像をどのように描きかえても実害はないが、大きな社会的なパワーをもった団体の指導者の「虚像」を提出するのはどうかと思うが、それも野暮な話だろう。残念ながら岡庭の批評に社会的影響力はほとんどないのだろうから。

とんでもない「師匠」をもってしまったものだとおもいながら、瞑目。

 

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