大井川通信

大井川あたりの事ども

田村隆一の詩を読む

いつも参加している詩歌を読む読書会で、田村隆一の詩集が課題図書になった。

田村隆一(1923-1998)は、戦後派の詩人の中でもとりわけ好きな詩人である。現代詩文庫も三冊買いそろえ、初期の名作だけでなく後年の作品にまである程度目を通している。僕にとって純粋に楽しんで読むことのできる数少ない詩人だ。

だから、田村隆一の圧倒的にかっこいい詩が、読書会で取り上げられるのは嬉しいと同時に、自分だけの宝物が他人の目に触れてしまうことへの抵抗感もあった。読書会はネットでも広報されているので、田村隆一をオンラインで読めるとなると今回は特別に参加者が多いのではないか、という期待もあった。

結論から言うと、僕の予想はまったくとんちんかんなものだった。参加者は今までになく少なかったし、参加者の反応も特別感心するという程でもなかった。

詩というものが時代や世代に強く縛られた文学であり、僕自身もずいぶんと歳をとって現役世代のはずれにいることを失念していたのだ。より若い世代にって、田村隆一はもはや時別な名前ではないのだろうし、僕が思う程、彼の作品から普遍的な訴求力を感じてはいないのだろう。

年表を見ると、田村は僕の父親より一年だけ年長で同じ誕生日だ。代表作といえる第二詩集の『言葉のない世界』の刊行が1962年だから、僕の生まれた翌年になる。20歳の頃初めて読んだときは、ずいぶん昔の人のような気がしていたが、今振り返ってみるとほぼ同時代の詩人といっていいくらいだったのだ。

例によって、7月に亡くなった岡庭昇の詩論集『抒情の宿命』(1971)から、田村隆一論を読んでみる。この評論の内容はよく覚えていた。岡庭が新進の詩人だったころの1967年の執筆だ。大仰な表現も目立つが、「言葉のない世界」論として、今読んでも説得力があるものだ。

「内部の主体と外部の世界とを共に甘くなれあわせて、何となく言葉の味わいとしては巨大なテーマをかかえこんでいるかのように思わせるところの言葉の積み木細工を、きわめて熟練したテクニックで作りあげたにすぎない」

岡庭は、この詩に「みごとなリズムの雄々しさ」と「骨格の太い文体構造」があることを認めつつも、それが時代に肉薄した思想的なリアリティを持っていないことを批判する。それはイデオロギーの時代には有効な批判だったのかもしれない。

ただし、今でも田村隆一の詩が色あせないのは、その思想ではなく美やレトリックへの志向であり、言葉の職人としての技術力のためだろう。岡庭が、マイナスの本質として的確にあぶりだしたものこそが、田村の作品を今でも輝かせているのは間違いないと思う。