大井川通信

大井川あたりの事ども

『月に吠える』 萩原朔太郎 1917

今月から始まった詩歌を読む月例の読書会に参加する。この会が定着すれば、毎月の小説を読む会、隔月の評論を読む会、月例の個人勉強会とあわせて、生活の中で無理なく読んだり考えたりすることのペースメーカーになってくれるだろう。

初回は萩原朔太郎(1886-1942)の詩集『月に吠える』だった。こうして生年と没年を書き取ると、朔太郎が50代半ば過ぎの、今の自分の年齢くらいに亡くなっているのがわかって、感慨深い。

昨年からの癖で、独自の〇△式採点法で読んでみると、55篇中、△(面白い要素がある作品)は13篇、〇(全体として面白い作品)は12篇で計25篇となり、4割5分の高打率となった。有名な詩人でも、2割以下の低打率の詩集が普通にあり、それだと読むのが苦痛になる。

僕が朔太郎に出会ったのは高校生の頃だから、1970年代末くらいだ。すでに朔太郎は戦前の旧時代の詩人であって、新しい時代の表現は戦後詩がになっていた。それから40年経って、当時の戦後詩の多くが古びてしまった中で、朔太郎だけが、まだこれだけリアルに読めるということは驚異だ。

その理由の一つは、朔太郎が詩の方法について、徹底して自覚的であって、突き詰めた論理性をもっていたためではないか、と気づく。詩集の序文には、だいたいこんなことが書いてある。

我々は、一人一人、生まれてから死ぬまで永久に「孤独」である。しかし、他の人間や植物との間に、愛や道徳という特別な関係を結ぶことができる。それを可能にするのが、「感情」という特異にして普遍的なものの存在であり、それを表現できるのが「言葉以上の言葉」としての詩である。

「孤独」「感情」「言葉以上の言葉」、この三つが朔太郎詩の等根源的な要素といえるだろう。